縁起の意味とは|由来は仏教用語.縁起を担ぐ/縁起が悪い等は仏教の教えではない

縁起

縁起の意味とは|縁起が悪いなど普段使う言葉の由来

縁起とは仏教の根本的な教えであり、この世のあらゆるモノや現象を成り立ちに関する考え方です。

現在では物事の吉凶を表現する言葉などとして使われますが、本来はそういう意味ではありませんでした。

仏教においては縁起の意味がわかると、この世のあらゆる苦しみから解放される一歩となります。とても大事な教えです。

今回は、縁起の意味について、仏教の教えを中心に解説します。

ちなみに、縁起が悪いや縁起を担ぐという現在一般的に使われる縁起の考え方は仏教側では否定的です。それらについても詳しく解説していきます。

縁起の意味

まず縁起という言葉の意味について、一般的に使われ、国語辞典などにも載っているものから先に解説いたします。

縁起を担ぐや縁起が良い/縁起が悪いの縁起の意味

この場合の縁起は「物事の吉凶の前兆」という意味を持ちます。

初夢で、「一富士二鷹三茄子」を見ることができれば縁起が良いと言われますが、何か起きたことに対して、その次の出来事の良い・悪い結果を暗示していると考える場合など「縁起」という言葉が使われます。

最近では良くルーティンという言葉で表現されることもありますが、良い結果につながるための準備的な行動を「縁起を担ぐ」とも表現します。

何かの出来事、行動が次の行動に良い・悪い影響を与えるという考え方です。

いずれも仏教の縁起という言葉を由来とした考え方と言えます。

しかし現在、縁起を担ぐや縁起が良い・縁起が悪いなどで表現するもの事は迷信めいたことが多くあり実際に物事の結果に作用するかどうかはわかりません。

そういう点で仏教での縁起とは意味が違います。

縁起がいい日に対する仏教側の見解

日本には、暦の上で縁起がいい日、縁起が悪い日というものが存在しています。

六曜大安仏滅選日一粒万倍日天赦日不成就日、干支の巳の日寅の日十二直二十八宿…などなど

その日に特定の物事をすることは良くない結果を生むや、その日に何かを始めると良い結果に恵まれるなど言われるものです。

これらはあくまで科学的根拠はない迷信めいたものとされてはいますが、日本では奈良時代以前から物事の判断に日の吉凶を見るということが行われてきました。

六曜の仏滅は、仏という漢字が入っていることもあるので、仏教に関係があるものと思われそうですが、実は全く関係がありません。

日本で最も信仰される仏教宗派の浄土真宗の開祖 親鸞はその著書で、「日の吉凶を見ることは良くない」とはっきり仰っています。

仏教側では縁起がいい日・悪い日については否定的な意見もあるのですが、二十八宿という暦注は空海が日本に持って来たとされる、仏教の宿曜経というお経が由来となっているので、縁起のいい日というものに仏教の影響が無いとはいえません。

六曜や仏滅、二十八宿の歴史やそれぞれの意味などについてはこちらをご覧ください。

六曜の意味とは|順番の法則や起源を解説。六曜日カレンダー2018/2019年付

仏滅とは|仏滅の意味や納車/引越し等の吉凶、午後から大安等俗説の真偽も

28宿(二十八宿)の意味とは|吉凶判断用28宿暦カレンダー(十二直付)

由来を意味する縁起

縁起という言葉は神社や仏閣の起源、由来を意味する時にも使われます。

これも仏教の教えに通じるものがあります。

しかし仏教用語としての縁起はさらに深い意味を持ち、この世の本当の姿を意味する言葉です。

また縁起という教えを理解することによって、この世のあらゆる苦しみから解放される一歩となると仏教では教えます。

仏教用語の縁起の意味とは「この世の真理」

仏教用語で縁起の意味は、「この世のあらゆるモノや現象、私たちの心でさえ、”因縁“というあらゆる関係にって形作られている」ということです。

縁起は縁起の法や縁起の理とも言われます。

縁起はこの世の真理を意味する大事な言葉です。

あなたや私たち人間も、今画面を見ているスマートフォンやパソコンというモノもすべて、色んな因と縁によって、”私”や”あなた”、”スマートフォン”や”パソコン”という存在になっていると言うのです。

この色んな因と縁が集まって、関係しあって、何かが成り立っているということが縁起です。

因と縁とは、私たちやスマホなどを成り立たせている原因となるものです。

例えば私たちという存在は、親という存在がいてこの世に生を受けました。

そして、食べ物を食べ、教育を受け、友達や先生などとの出会いがあって、住んでいた町や訪れた都市という周りの環境があって成長し現在に至ります。

とは私たちで考えると、親のような直接的な原因を意味します。

とは私たちで考えると、食べ物や周りの環境のような間接的な原因を意味します。

パソコンやスマートフォンはそれを作る材料(因)があって、それを作る会社や人(縁)があって存在します。

そんなようにあらゆるモノも現象も、色んな直接・関節的な原因、つまり因縁があって今ここに存在しています。

これはこの世のあらゆる事柄に適応される、絶対に変わらないルールです。

この絶対的なルールのことを真理といいます。

私たちが因縁から成り立っていることと同様に、仏様も、神様も因縁から成り立っていると仏教では説きます。例外はありません。

縁起という真理がわかると、私たちの人生の苦しみから解放されるとお釈迦様は説いたのですがそれはどういつことなのか以下で具体的に解説していきます。

縁起がこの世の真理という仏教の教え

あらゆる事柄が縁起によって生じているということは、裏を返すと、私たちやパソコンやスマートフォンには、実体がないということになります。

実体がないと言うのは、どんな存在も単体で成り立っていることはなく、何からも影響を受けないものはない。

つまり何かしらの因と縁によって成り立っているということです。このことを仏教用語で無我と言います。

あらゆる存在は絶対に因と縁によって生じていて、実体があるものは存在しないということを諸法無我と言います。

どんな存在も単体で成り立っていないということは、色んな因と縁によって影響を受けます。

すると永遠不変のものはない、必ず影響を受けながら変化していくと考えます。このことを仏教用語で無常と言います。

あらゆる因と縁によって形成されたものが無常であるということを諸行無常と言います。

縁起という教えが根本にある、諸法無我諸行無常仏教の最も大事な3つの教えの内の2つであり苦しみから解放されるための重要なキーワードになるので、ぜひ縁起の意味と共に覚えていてください。

 

さて、なぜこの世の真理である縁起を理解すると、苦しみから解放されるとお釈迦様は悟られたのかと言うと、

お釈迦様はこの世のたくさんの苦しみが生まれる原因は、

「自分の体や心、その他の愛する人や何かを”わがもの”として執着すること、煩悩である」と悟られます。

自分が老けていく姿を見て苦しいと思ったり、愛する人や大切な何かを失うと苦しいと感じるのは、

若い時の自分の姿や周りの人、モノに対して、愛するという感情わがものという感情があるからこそ生まれるのです。

どうでもいいモノが無くなってもあまり苦しいと思わないでしょう。

大事な自分の何かが失われるからこそ苦しみが生まれるというのは納得できます。

この苦しみが生まれる原因である「自分の体や心、その他の愛する人や何かを”わがもの”として執着すること」は、縁起というこの世の真理を理解すると無くなるというのです。

 

この世のあらゆる事柄が縁起で成り立っている考え方で、愛する人やモノを捉え直してみます。

縁起によって成り立っているということは、実体がなく(=無我)、永遠不変のものは存在しない(=無常)ということでした。

つまり、自分の体も、愛するなにかも、すべての存在は実体がなく、どんなに努力しても変わっていくことは止められず、いつかは亡くなったり、失われたりするものであると言うのです。

このことを理解をしていれば、自分の老化も愛する人やモノとの別れも当たり前のこととして理解できます。するとそれらに対する執着する心が無くなります。

執着する心が無くなれば、この世の苦しみから解放されるというのです。

 

ここに書かれていることは、当たり前に皆さん知っていることですし、これらを読んで苦しみから解放されたという人はいないと思います。

ただ知っているということでは苦しみから解放はされません。

苦しみから解放される状態になるためには、この縁起という教えを本当の意味で理解し、常にそのことを覚悟している必要があるとお釈迦様は教えました。

もし、いつかは老いていくことも、いつかは死ぬことも常に覚悟できている状態であるとしたら、覚悟していない状態よりも苦しいという感情はないような気がしませんか?

完全にそのことを覚悟できている状態にない人にとっては、中々想像しづらいものですが、苦しみから解放されると言うのは縁起というこの世の逆らえないルールに対する覚悟を常に持っているようなものだというのです。

縁起というこの世の真理を理解し、あらゆるものは無常であり無我であるということ、諸行無常と諸法無我が本当の意味で理解できるというのは早々簡単にできることではないのですね。

参考:原始仏教の思想Ⅰ 中村元 春秋社

縁起の法/縁起の理(縁起説)はわかりやすく説かれたものだったが

縁起という仏教の教えは、お釈迦様の最初の説法でも説かれたとされる根本中の根本とも言える教えです。

あまりに大事だったこともあって、縁起という真理はたくさんの頭のいい人の考察によって、たくさんの解釈がなされ、たくさんの縁起説が生まれます。

十二縁起(十二因縁)、法界縁起、業感縁起等々、様々な縁起説は縁起という教えを発展させたもので、それらは少し複雑です。

例えば、十二縁起はこの世の苦しみの原因とは何かを縁起という真理に則って考え、その根本的な原因を無明であると教えます。

この無明の教え自体は、シンプルでわかりやすく、お釈迦様が実際に説いた教えとされますが、後の世ではこの十二縁起も難しい解釈がなされ、「三世両重の因果」という教えに発展します。

それらについてはここで解説すると長くなりますので、割愛いたしますが、本来は仏教の教えはとてもシンプルなものであり、理解することは難しくなく、とても面白いものであると知っていただければと思います。

十二縁起という教えにおいて、苦しみの原因となる無明についてはこちらで詳しく解説しています。

無明の意味とは”苦しみの究極の原因”|仏教の教えや無明長夜等用語を解説

縁起は因縁生起の略語

縁起という言葉は、因縁生起という言葉を省略した言葉です。

からあらゆる存在が成され、現象がきているということです。

私たちの存在が因と縁で成り立っているという考え方だけでなく、

い行動が原となって、い結に結びついたり、(仏教では善因善果と言われる)

い行動が原となって、い結に結びついたりと、(仏教では悪因悪果と言われる)

あらゆる物事にこの因縁生起という考えは適応されます。

因果というのも、この縁起から生まれた考え方ですね。

因縁と言う言葉の意味についてはこちらで詳しく解説しています。

因縁の意味とは|仏教の教えをわかりやすく。因縁生起/因縁果報とは

縁起がわかると慈悲が生まれる

縁起を理解することは苦しみから解放されるだけでなく、慈悲の心が芽生え、あらゆる人やモノに対する慈しみ・愛する心が生まれることにつながります。

自分という人間が存在しているのは、両親や祖父母、友人、これまで食べて来た食べ物、様々な因と縁で成り立っています。

自分の目に見える、意識できる範囲だけでも、たくさんの因と縁によって成り立っていると理解できますし、私たちが意識できない範囲でもたくさんの存在によって、私たちは成り立っています。

自分という存在は唯一無二の、単体で存在するようなものではないと理解でき、周りの人達や、周りの環境に感謝する気持ちが生まれます。

この考えをさらに深めると、自分という存在は、周りと区別されるような存在ではないと考え、周りも自分と同様に大切なモノ、周りだって自分と同様に大事にしないといけないという慈悲が生まれるというのです。

この説明だけでは慈悲が生まれる意味があまりイメージできないかもしれませんので、それらについて詳しくまとめた諸法無我のページをぜひご覧ください。
東大で仏教の講義をされるお笑い芸人さんによる、実体がないということはどういうことなのか、そしてそこから慈悲が生まれる理由をイメージできる例を引用して解説していますのでぜひご覧ください。

諸法無我とは|意味や簡単にイメージできる例で説明。諸行無常との関係とは

また、諸行無常についてはこちらで詳しく解説しています。

諸行無常の意味とは|平家物語の”諸行無常の響きあり”の意味も含め簡単に解説

ご縁という意味での縁起

ご縁という言葉も、ここまで見てきた方ならわかると思いますが、縁起という仏教の思想から生まれた考え方です。

仏教由来と意識されないほど、私たちの生活に深く根差した考え方とも言える「ご縁」

私たちが色んな人と出会ったり、色んなモノ・場所などと出会うことをご縁と言いますが、これら様々な小さな出会いも含めすべては私たちを形作っているものです。

一期一会という言葉も、縁起の意味を知って、たった一度の出会いが今の私たちを形作っていると考えると、より味わい深いものになりませんか。

今回は少し手短に縁起という言葉について解説いたしましたが、縁起は日本で最も読まれているお経の般若心経の「」という概念や、四諦という仏教の根本的な教えにも関わってくるものです。

縁起という教えから少し興味が湧いた方は、ぜひそれらについても読んでみていただければと思います。

般若心経と四諦についてはそれぞれこちらで詳しく解説しています。

般若心経とは|全文の意味が分かると面白い!般若心経の現代語訳と意味解説

四諦(四聖諦)とは|仏教の言葉の意味を八正道も含めわかりやすく解説

また真理という言葉についてはこちらで詳しく解説しています。

真理の意味とは|仏教の真理と他宗教の真理,哲学の真理の意味は違う