毘沙門天とは|ご利益・ご真言・七福神としての意味や信仰の歴史を解説

毘沙門天

毘沙門天とは|ご利益やご真言,信仰の歴史を解説

毘沙門天とは上杉謙信等の武将が進行した戦いの神様というイメージが強い人もいると思いますが、商売繁盛・金運財運などのご利益でも信仰される神様です。

四天王という仏教を守護する神様の中の最強と言われる強い神様であり、七福神の一柱として、人々に福をもたらす神様でもある毘沙門天について、何の神様でどんな由来があるのかなど具体的にご紹介していきます。

毘沙門天の意味

毘沙門天という神様は元々はインドの神様でした。

インドの神様が仏教に取り入れられて、日本に伝来して毘沙門天の信仰が広がります。

後程このあたりの詳しい信仰の歴史や、毘沙門天という神様のゆらいについて見ていきますが、毘沙門天の読み方の「びしゃもんてん」は元のインドの神様の名前を漢字で置き換えたものになっています。

毘沙門天は多聞天の別名

毘沙門天とは元は四天王という仏教を守護する護法善神の一柱の多聞天の別名です。

少し難しい表現になりましたが、簡単に言うと仏様や、仏教の教え、仏教の信徒を守ってくださり、生活に直結したご利益(現世利益)を与えてくれる良い神様ということです。

仏教の神様は天部というのですが、このあたりについても後程詳しく解説しています。

毘沙門天のご利益

毘沙門天 イラスト画像

毘沙門天は民間での信仰が広まるととても多くのご利益がある神様として祀られるようになります。

毘沙門天のご利益として有名なものを上げると、

  • 商売繫盛
  • 金運財運向上
  • 武運長久・勝運・開運長久
  • 厄除開運

等々あります。

もちろん他にも寺院などによって様々な由来のある毘沙門天様を祀っているところがあります。

特に有名なご利益についてご紹介しておきます。

聖徳太子・上杉謙信等の毘沙門天信仰|勝運

上杉謙信という越後の龍と言われた戦国武将きっての戦上手も信仰した毘沙門天は戦の神として有名です。

戦国時代には上杉謙信以外にも、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康も毘沙門天に戦勝祈願をしたとされます。

七福神の絵の中でも武装した格好で描かれることから、戦いの神イメージがあると思いますが、この毘沙門天の信仰は今から約1500年前の聖徳太子が毘沙門天王に戦勝祈願し信仰していたことが始まりとされます。

その後、戦国時代に行く前にも多くの武将から信仰を集めた毘沙門天の武運長久・勝運の神様としての信仰については後程さらに詳しくご紹介します。

毘沙門天は金運財運のご利益も知られる

毘沙門天は朝廷や、武将と言った人達には戦いの神様という信仰を篤く受けましたが、民間では商売繁盛や、金運財運を向上する福の神として信仰されます。

金運のご利益というのは、毘沙門天という神様の元となるインドの神様のご利益を引き継いだものだと言われます。

七福神では毘沙門天は「威光」を意味

毘沙門天の信仰の人気は、日本以外の中国やインドでも見られるそうですが、日本独自の信仰である七福神という神様に毘沙門天は名を連ねます。

毘沙門天は七福神では威光を意味するとされます。

民間ではそのような意味よりも、商売繁盛を含む、毘沙門天を信仰すると得られるとされる十種の福に預かろうという信仰が広まります。

この毘沙門天の十種の福と言われるご利益は、「毘沙門天王功徳経」という毘沙門天の功徳(ご利益)についてまとめたお経に書いてあるもので、

  • 無尽の福
  • 衆人愛敬の福
  • 智慧の福
  • 長命の福
  • 眷属衆太の福
  • 勝運の福
  • 田畠能成の福
  • 蚕養如意の福
  • 善識の福
  • 仏果大菩提の福

という十のご利益です。

続いて毘沙門天のご利益に預かりたいと、参拝する時に唱えると良いとされるご真言についてご紹介します。

毘沙門天のご真言(マントラ)

毘沙門天のご真言は、

おん べいしら まんだや そわか

です。

ご真言は寺院によって、何回唱えると良いというのが仏像の前などに書いている場合がありますのでそちらに倣って唱えてください。

ご真言は唱えるだけでも効果があると言われます。そのため仏像の前でなくても唱え手も良いと言われます。

ちなみに仏像の前に毘沙門天のご真言を何回唱えると書いていない場合は、7回唱えるのが良いとでしょう。

もし時間があるのであれば21回・108回唱えると良いとされます。

毘沙門天の梵字

毘沙門天を意味する梵字は「ベイ」と読み以下のようになります。

毘沙門天 梵字 イラスト画像

毘沙門天とは何の神様か|由来や信仰の歴史

毘沙門天という神様をさらに詳しく理解するために、日本でどのように信仰されてきたのかや、インドの神様がどのようにして仏教の神様である毘沙門天になったのかについてご紹介します。

毘沙門天の由来はインドの神様

毘沙門天は仏教が生まれるずっと前からインドで信仰されていたバラモン教の財福の神「クベーラ」「ヴァイシュラヴァナ」という神様を仏教に取り入れて生まれます。

元はインドでは財福をもたらす神として信仰されてもいました。

インドの神話をまとめたヴェーダという書物のアタルヴァヴェーダやマハーバーラタにも表記が見られ、インドの古代の遺跡にも仏塔などに毘沙門天が描かれるのですが、その姿は私たちが知る、鎧をまとった姿ではありません。

しかし、仏教の神様に取り入れられると、仏様や仏教の教えを守護する強い神様として描かれるようになり、後に鎧をまとう姿となって日本にもたらされます。

仏教の神様としてお経に説かれる

毘沙門天は仏教において、天部という神様のグループに属します。

この天部というのは、毘沙門天以外にも仏様・仏教の教え・仏教の信徒を守護する存在としてお経に表記される神様で、弁財天(弁才天)大黒様として信仰される大黒天なども天部に属します。

天部についてはこちらで詳しく解説しています。

天部とは|仏教の守護神、天部衆の神様の種類や信仰,有名な仏像を紹介

毘沙門天はこの天部の中でも、特に守護神という性格を持っており、法華経というお経で次のように描かれています。

帝釈天の配下、四天王と言う護法善神として描かれる

仏教の世界観では、世界は須弥山(しゅみせん)という山を中心として四方に広がっていて麓には人々などが住む世界が描かれます。

この須弥山には、仏教の神様(天部)が住まわれ、さらに須弥山の上空(宇宙などともいわれる)には仏様の世界が広がっています。

毘沙門天は四天王というこの須弥山を東西南北四つに分けた北方(北倶盧洲(ほっくるしゅう))を守護し、それぞれ山を登ろうとする悪鬼などから仏様や仏教の教えを守るとされます。

毘沙門天の配下には、鬼である夜叉や羅刹がいて、それらをまとめるリーダーでもあります。

ちなみに須弥山の頂上にはこの四天王のリーダーである帝釈天がおられます。

お釈迦様の言葉を多く聞いた智慧の神として描かれる

また、毘沙門天はお釈迦様が衆生に説法した時、お釈迦様の最も近くで多くのこと聞いた神様としても描かれています。

また、お釈迦様のお言葉を聞き漏らさないというだけでなく、衆生の言葉も聞き漏らさないということから、一般の人の悩みを聞きご利益をくださるとも考えられるようになります。

後に、法華経などのお経が中国の僧達によって漢訳されたときに、元の神様のヴァイシュラヴァナを音訳した「毘沙門天」という表記と、「お釈迦様のお言葉を多く聞き、言葉を聞き逃さない」という意味の多聞天という表記が生まれますがどちらも同じ神様のことです。

多聞天とは|毘沙門天と知られる四天王のご利益や仏像の有名寺院を紹介

毘沙門天は四天王で最も強い

毘沙門天は四天王(持国天,増長天,広目天)という仏教を守護する強い神様の中で、最も強い神様として描かれます。

そのため仏教が伝来した中国にて、戦いの神という側面が取り上げられます。

四天王についてはこちらで詳しく解説しています。

四天王とは|四天王像の見所や毘沙門天を含む仏教の守護神を解説

中国で毘沙門天は強い神という信仰が始まる

中国にて毘沙門天の信仰は広がります。

インドでも信仰されてはいましたが、中国では四天王の中でも特に毘沙門天への信仰が広がるようになり四天王の一柱として描かれるだけでなく、毘沙門天の独尊像が作成されるようになります。
この頃に今の鎧を着た姿の毘沙門天像が造られるようになったとされます。

後程詳しくご紹介しますが、毘沙門天の仏像の種類の一つ兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)は中国で皇帝が毘沙門天を信仰し、北方民族の侵入を防いだという伝説が残るなど、中国では強く、守護をする神様としての信仰が見られます。

西遊記のモデルとなる玄奘三蔵という中国の僧侶がインドへの旅をつづった大唐西域記では、中国西方の瞿薩旦那国という国で、毘沙門天の子宝のご利益に預かり、子供を授かったという王様の話など毘沙門天信仰は戦いの神という以外にも多くのご利益で知られていたことも見られます。

毘沙門天王への信仰の始まり|聖徳太子の逸話

毘沙門天は日本にもたらされると、国家鎮護の神様として信仰をされるようになります。

そのことが見て取れるのが、日本発の勅願寺院である四天王寺(大阪)です。

この四天王寺は聖徳太子が建立したことでも有名で、毘沙門天を含む四天王を祀る寺院です。

四天王寺を建立した聖徳太子の毘沙門天信仰の伝説をご紹介します。

聖徳太子の毘沙門天信仰

仏教が朝鮮から伝来した後の日本では土着の神道のみを信仰すべきと主張する物部氏と、仏教も進行すべきと言った蘇我氏を中心としたグループが対立します。

聖徳太子は蘇我氏と共に仏教を日本でも進行すべきとするグループで、ついにこの対立は戦につながります。これを丁未の乱(ていびのらん)と言います。

この乱が始まる前に、聖徳太子は現在毘沙門天を御本尊としてお祀りする信貴山朝護孫子寺が建つ、山にて戦勝祈願をします。

すると天空から毘沙門天王が現れたと言います。

この毘沙門天のご加護に預かった聖徳太子・蘇我氏の軍勢は、軍事を司る氏族の物部氏を打ち滅ぼし、日本で仏教を広める基盤を作りました。

この戦勝祈願の際に、勝利の暁に四天王を祀る寺院を建立すると約束をされた聖徳太子は大阪の地に四天王寺を建立するのです。

また、毘沙門天が現れた山は、「信ずべし貴ぶべき山」として信貴山と名付け、毘沙門天を祀る朝護孫子寺が建立されました。

毘沙門天を闘いの神として多くの武将が信仰

聖徳太子の信仰もあってか日本では毘沙門天は戦いの神として多くの武将がそのご利益に預かろうと信仰をします。

平安時代に東北の蝦夷を討伐しに行った日本最初の征夷大将軍の坂上田村麻呂も信仰しています。

また鎌倉幕府を打ち破ろうと立ち上がり、1千足らずの兵で10万とも言われる幕府軍に勝利を収めた名将の楠木正成も進行しており、幼名は毘沙門天の別名の多聞天から頂いた多聞丸と名乗ります。

軍神 上杉謙信の毘沙門天信仰(毘沙門天旗等)

そしてなんといっても毘沙門天信仰で有名な武将と言えば上杉謙信です。

上杉謙信は、自らを毘沙門天の生まれ変わりとし毘沙門天を信仰し、居城である春日山城には毘沙門天像を祀っていました。

また、戦場で自兵が持つ幟(のぼり)には黒地に毘沙門天の毘の字が白字で記された幟を使っていました。

上杉謙信が祀った毘沙門天は泥足毘沙門天と呼ばれます。その逸話は次のようなものです。

泥足毘沙門天像

上杉謙信が戦で居城を長く留守居にしていて、久しぶりに帰った春日山城にて毘沙門天像を祀るお堂にお参りに上がるとお堂の中には泥の足跡があったのです。

この泥の足跡を不思議に思い、その足跡の続く先まで行くとそこには祀っていた毘沙門天像のところで途切れていたのです。

上杉謙信は「毘沙門天様が、自分と共に戦場に出陣し、我を守護し共に戦ってくださっていたのだ」と悟ったそうで、それからこの毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼んだとされます。

毘沙門天を信仰した戦国武将

上杉謙信以外にも、毘沙門天への信仰をした戦国武将は多く、毘沙門天を祀る寺院に戦勝祈願をした武将には、

  • 武田信玄
  • 筒井順昭
  • 松永久秀
  • 豊臣秀吉
  • 豊臣秀頼
  • 徳川家康

と言った武将などが挙げられます。

民衆では商売繁盛や金運のご利益で知られる

毘沙門天は朝廷や武将による信仰が広がるだけでなく、民間でも信仰が広がります。

平安時代には、毘沙門天を御本尊に祀る京都の鞍馬寺は朝廷の信仰だけでなく、多くの庶民の信仰が集まります。

この頃には商売繁盛などの現世利益を授ける神様という側面が民間に広がっていたとされ、多くの商売人などが参拝するようになります。

三面大黒天という大黒天/弁財天/毘沙門天が一緒になった仏像

毘沙門天の信仰の人気がうかがえる、一つの仏像があります。

それは平安時代に造られた、比叡山延暦寺の三面大黒天という大黒天を正面に、左に弁財天、右に毘沙門天の顔を持つ仏像です。

この仏像は豊臣秀吉が立身出世を願ったことで、出世大黒天とも言われます。

毘沙門天が七福神に入る

七福神の明確な起源は定かではないのですが、室町時代頃から広まる七福神信仰で毘沙門天は早くから名を列していました。

上記で見た三面大黒天のように大黒様、弁財天、毘沙門天、そして恵比寿様は早くから七福神に名を連ねていて、その後寿老人福禄寿布袋尊が入ってきます。

七福神の信仰は江戸時代、徳川家康の政治顧問でもあった天海大僧正によって大きく広まったと言われます。

毘沙門天を祀る寺院

毘沙門天は四天王として祀られる場合と、独尊で祀られる寺院があります。

今回ご紹介するのはご本尊で毘沙門天を祀る寺院です。

信貴山朝護孫子寺(奈良)|毘沙門天信仰総本山

聖徳太子の毘沙門天信仰の段でもご紹介しましたが、日本の毘沙門天信仰発祥の地とも言える、朝護孫子寺は奈良県と大阪府の間に走る生駒山地の一つです。

聖徳太子が毘沙門天(四天王)に戦勝祈願をして、毘沙門天が天空から現れたのは、寅の年、寅の日、寅の刻であったことから、朝護孫子寺では寅の日がご縁日とされ、この日に毘沙門天をお参りすると聖徳太子にあやかって良いことがあると言われます。

元々寅の日は暦の上で金運の上がる縁起の良い日とされますが、その日に毘沙門天にお参りをするとさらにご利益に預かれるご縁日とされます。

寅の日についてはこちらで詳しく解説しています。

寅の日とは|意味や2018/2019年カレンダーをご紹介!財布や宝くじの購入に最適!

寅歳記念大法会(三寅の福に預かる)

聖徳太子の毘沙門天信仰の寅の年、寅の日、寅の刻の伝説から、干支が寅の年に朝護孫子寺を含む信貴山の寺院では寅歳大法会というものが行われます。

寅の年初めの寅の日、寅の刻には、初寅大法会が行われ、三寅参りと言われ、三寅の福に預かれると言われます。

他にも寅の年には12年に一度しかない様々な行事があります。

信貴山朝護孫子寺の公式ページ

鞍馬寺(京都)|民間の毘沙門天信仰発祥地とされる

毘沙門天 画像 鞍馬寺

奈良時代に建てられた鞍馬寺は、平安時代に朝廷や貴族から民衆に至るまで毘沙門天を信仰する多くの人が参拝に訪れた寺院です。

源義経が幼少期の牛若丸と名乗っていたころ、平清盛に父が負けたことから鞍馬寺に預けられ、鞍馬山の伝説である天狗と共に修行をした伝説の地でもあります。

戦国武将の多くが戦勝祈願を願い寄進をした地で日本でも有数の毘沙門天信仰の地です。

初寅大祭

新年あけて初めての寅の日には、全国の毘沙門天を祀る寺院で商売繁盛や厄除招福のご利益に預かろうと多くの人が参拝に訪れます。

鞍馬寺では、初寅大祭といわれ、全国でも有名な初寅の日の行事があります。

寅の月・寅の日・寅の刻に鞍馬山に毘沙門天が降臨されたことにちなむとされ、初寅大祭に参拝すると毘沙門天の無量の大福に預かることができると言われます。

鞍馬寺の公式ページ

神楽坂毘沙門天 善国寺(東京)

善国寺は江戸三大毘沙門天の一つで、江戸時代多くの庶民が信仰し今でも多くの参拝客が毘沙門天にお参りに訪れる場所です。

戦国時代だった1595年に天下泰平を祈祷したことを聞いた徳川家康によって、寺領を受け「鎮護山 善国寺」として始まった寺院です。

神楽坂の地に移転するまでは他の地にあったのですが、大火事などの影響によってこの地に移転してきたそうです。

ちなみに江戸三大毘沙門とは神楽坂毘沙門天に加え芝正伝寺・浅草正法寺の3寺を指します。

神楽坂毘沙門天 善国寺の公式ページ

現在は新宿山手七福神の毘沙門天を祀る寺院としても知られます。

東京の七福神巡りルートについてはこちらで詳しく解説しています。

東京七福神めぐり|おすすめコースや一か所で巡る人気の寺院をご紹介

妙法寺(静岡県富士市)|開運毘沙門天

静岡県富士市にある妙法寺は毘沙門天大祭と呼ばれる毘沙門天のお祀りをすることで有名な寺院です。

妙法寺の毘沙門天像は毘沙門天の仏像の中でもかなり特殊な仏像で、聖徳太子が作成されたと言われ、聖徳太子の肩の上に毘沙門天が乗っていると言われます。

後程毘沙門天像の姿とその意味についてはご紹介しますが、妙法寺の毘沙門天はとても珍しいのです。

妙法寺の公式ページ

毘沙門天大祭

旧正月の7日、8日、9日の三日間は毘沙門天王が私たちの住む世界にやってきて願いを聞き届けてくださるという日といわれ、その間に妙法寺では毘沙門天大祭が行われます。

ちなみに2019年の毘沙門天大祭は2月11日~13日の3日です。

毘沙門天大祭はだるまが有名

毘沙門天大祭ではたくさんのだるま屋が軒を連ねるダルマ市が有名で、縁起物のダルマの開眼祈祷や、買い替え等で不要になるダルマを焼いてお清めするお焚き上げが行われます。

毘沙門堂(広島)|緑井毘沙門天と呼ばれ信仰を集める

広島にある毘沙門堂は初寅祭を二月の初寅の日(旧暦で正月の初寅の日)に行うことで有名な寺院です。

時期的に全国の稲荷神社初午の日に行う初午祭がありますが、広島では初寅祭が有名だそうです。

一乗院(茨城)|日本一大きい毘沙門天像

茨城県の一乗院には日本で一番大きな毘沙門天像があることで有名です。

この一乗院の毘沙門天像は16mあって日本で最も大きいということで有名ですが、実はこの毘沙門天像よりも、すごい仏像が毘沙門堂にある毘沙門天像です。

日本一の仏師運慶の作の毘沙門天像

一乗院の毘沙門堂にある毘沙門天像は、鎌倉時代に活躍し、東大寺南大門の仁王像など力強く今にも動き出しそうな躍動感のある仏像の傑作を残した運慶の作です。

一乗院の公式ページ

毘沙門堂門跡(京都)|京都山科にある古刹

京都の毘沙門天を祀る寺院の中でも鞍馬寺に次いで有名な寺院の一つが毘沙門堂門跡です。

奈良時代、文武天皇の勅願によって開山し後に、伝教大師つまり最澄によって、唐より伝えられた鎮将夜叉法という秘法を日本で唯一伝える寺院です。

毘沙門堂門跡公式ページ

ちなみに毘沙門天を祀る寺院で京都で他に有名な寺院は、都七福神の毘沙門天を祀る寺として指定される、東寺です。

毘沙門天像の持ち物などの像容を解説

毘沙門天の仏像に描かれる姿について解説します。

毘沙門天は中国の唐風の武将姿をしていて、鎧を身にまとい、忿怒相(ふんぬそう)と言う怒った、迫力ある顔で描かれます。

毘沙門天 画像 鞍馬寺

(写真は鞍馬寺の毘沙門天立像)

これはお経の中にある仏法の守護神ということを表していて、仏教を脅かすものへの睨みを聞かせているという姿です。

その他、特徴的な持ち物や足元にいる鬼などの意味をご紹介いたします。

独尊でご本尊に祀られると毘沙門天という

寺院によって毘沙門天の仏像を毘沙門天像(毘沙門天立像等)と呼ぶところもあれば、多聞天像と呼ぶところがあります。

この違いは、毘沙門天が独尊で祀られる時なのか、四天王の一柱として祀られるときなのかというのが一般的な区別のされ方です。

どちらも基本的には像容は同じです。

毘沙門天の持つ宝塔

毘沙門天は左手に宝塔を持つ姿が描かれます。(右手のこともあります)

この宝塔は仏教の尊い教えと、それらを納めた経典を納めていると言われます。

毘沙門天の持つ武器

毘沙門天は右手に三叉戟という、先が三叉に分かれた戟(ほこ)を持つ姿が有名です。

この三叉戟の他にも武器を手にしていることがあるのですが、この姿は鞍馬型と言われ、軍神としての毘沙門天を表現しています。

この他に、如意宝棒という先に如意宝珠という衆生の願いを叶える珠をつけた棒を持つ信貴山型という毘沙門天像があります。

毘沙門天の足元の天邪鬼

毘沙門天像の最大の特徴とも言われる足元に邪鬼(天邪鬼)を踏みつけている姿は、悪から守護するという意味を持ちます。

ちなみにこの足元の踏みつけられている天邪鬼と呼ばれる悪鬼は毘沙門天の配下となる鬼といわれ、「藍婆(らんば)・毘藍婆(びらんば)」と呼ばれます。

毘沙門天の脇侍

毘沙門天が独尊で祀られる場合、その脇侍には吉祥天という女神と善膩師童子(ぜんにしどうじ)の三尊で祀られます。

吉祥天は毘沙門天の妻とされる

吉祥天は毘沙門天の妻であり、善膩師童子はその間の子であるとされます。

この三尊で祀ることは家庭円満を象徴しているとされます。

吉祥天と言う神様についてはこちらで詳しく解説しています。

吉祥天のご利益/ご真言や祀られる神社/寺を紹介|有名な吉祥天女像も解説

兜跋毘沙門天という仏像

毘沙門天像には、複数の種類があるのですが、その一つが兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてん)というものです。

兜跋毘沙門天の由来は唐の時代にあります。唐の玄宗のころ西域経営の中心地の敦煌に置かれた安西城が敵に囲まれ落城寸前の状態になります。

この時に地中から毘沙門天が出現し、敵はその姿に恐れを抱き逃げてしまったと言います。

この毘沙門天の御威光から、兜跋毘沙門天像を作成し、都の守護のために楼門上に祀る陽になったそうです。

この兜跋毘沙門天は日本にももたられ、平安京の南門である羅生門にも祀られたと言います。

兜跋毘沙門天の姿は、一般的な毘沙門天像とは違い鎧の姿が違っているなど特徴的な像容になります。

毘沙門天立像 画像 東寺

(写真は東寺にある兜跋毘沙門天像)

兜跋(とばつ)という言葉の由来には、この地域に影響をもたらしていたチベットを意味する吐番(とばん)という言葉や、兜跋国があったとする現在の吐魯番(トゥルファン)が語源とされます。

毘沙門天像・多聞天像・兜跋毘沙門天像等が有名な寺院

毘沙門天を御尊像に祀る以外にも、毘沙門天像がある有名な寺院はあります。

それらの寺院についてご紹介いたします。

鞍馬寺(京都)|国宝毘沙門天立像と兜跋毘沙門天立像

毘沙門天信仰の中心地の鞍馬寺には、国宝の毘沙門天三尊立像があります。

また、少し姿が違う兜跋毘沙門天立像もあり、二つの毘沙門天立像が祀られています。

毘沙門天像が秘仏となり開帳する日が決まっている寺院も多いですが、鞍馬寺では霊宝殿という鞍馬寺に伝わる国宝などを展示している場所で毘沙門天像を見ることができます。

法隆寺(奈良)|国宝毘沙門天立像と日本最古の多聞天像(四天王像)

日本最古にして世界最古の木造建築物である法隆寺には、毘沙門天立像と四天王像として安置される多聞天像の二つが祀られます。

いずれも国宝指定でとても重要ですが間近で見ることができとても貴重な体験ができます。

法隆寺の多聞天像(四天王像)は日本でも唯一とされる貴人型と言い鎧を着た姿ではなく、唐風の貴族の姿をしています。

毘沙門天立像は平安時代の作、四天王像・多聞天像は飛鳥時代の作です。

毘沙門天にまつわる様々な説

毘沙門天という神様にまつわる様々な説についてご紹介いたします。

毘沙門天はムカデが眷属とされる由来

毘沙門天の眷属(神様の御遣い)は聖徳太子の伝説にもあるように、寅(虎)とするのが一般に知られます。

しかし、毘沙門天の眷属にはムカデもいると言われます。

この毘沙門天はムカデを眷属とすると言うのは、毘沙門天信仰の総本山と言われる信貴山でも言われていて、信貴山ではムカデが出ることは吉祥だとし、殺さず逃がすそうです。

ムカデが毘沙門天の眷属とされる所以には、複数の説があります。

  • ムカデは百足と書く通り、足が多くあります。お金を「おあし」と呼ぶこともあって、「おあし」がたくさんある百足(ムカデ)は多くのお金を持つという意味を持つ
  • ムカデは百足と言われる足が足並みを揃えて動くことにちなみ、商売繫盛に必要な経営者・社員一同の足並みを揃えるという言葉に通じる
  • 昔の山師がつかった鉱脈の隠語、もしくは鉱脈は細長く続くことからムカデの形に通じる

これらの説から毘沙門天の眷属はムカデだとも言われ、毘沙門天を祀る寺院などでムカデの絵などがあったりするそうです。

参考:信貴山と百足(ムカデ) 信貴山大本院 千手院

毘沙門天の眷属は鼠という説も

毘沙門天の眷属に虎やムカデ以外に鼠が数えられるのですが、この説には、

  • 方位を干支で表現すると、北が子(鼠)となり、お経で毘沙門天が守護する北方につながる

ということからネズミが眷属と言われるようになったといわれます。

他にも、中国にて毘沙門天を信仰した王族が鼠に守護されるという話など毘沙門天の御遣いに鼠が登場する話があります。

西宮神社の毘沙門天の話

毘沙門天は仏教の神様ですので、明治時代の神仏分離令後の廃仏毀釈の影響から多くの神社では毘沙門天の名や像は失われました。

しかし、明治以前の神道と仏教の神様が同一視されていた神仏習合の時代、毘沙門天は恵比寿様を祀る西宮神社の中で恵比寿様と共に祀られていたと言われます。

この話についてはこちらで解説しています。

恵比寿様とは|大黒様と祀る意味や由来・何の神様かご利益,神社等紹介