一切皆苦とは|仏教の苦の意味と解決策を解説
一切皆苦とは仏教の最も大事な教えの一つです。
文字通り読むと、「世の中の一切(すべて)は、苦しみだ」となります。
この解釈を、「その通りだ」と感じる人もいると思いますし、
「苦しみばかりではないだろう」と感じる人もいると思います。
お釈迦様の伝えた、「一切皆苦」という言葉の意味には「苦」とは一体どういう意味があったのか、詳しく解説していきます。
一切皆苦の読み方「いっさいかいく」
一切皆苦はいっさいかいくと読みます。
音がよく似た言葉に、「一切皆空」という言葉がありますが、これは全く違う意味を持った言葉になります。
このことは後程解説いたします。
一切皆苦は一切行苦と同意
また、一切皆苦と同じ意味を持っている「一切行苦」という言葉があります。
さて、一切皆苦の意味について見ていきましょう。
一切皆苦の意味
一切皆苦の「苦」の意味は、人生・世の中が自分の思い通りにならないことに悩むこと
このように解釈されます。
例えば貧困で苦しんでいる人もいれば、経済的に成功して貧困にあえぐことはなくなっても、さらなる富を得たいと考え心が休まらなかったり、老いていくことに苦しんだり、人間はそれぞれの立場で苦しむ要因は少なからずあるのです。
とても楽しい時間が続いても、それは一生続くわけではありません。
どんなに良い人達と出会い、素晴らしい人生を過ごしていても、いつかは愛する人や、尊敬してやまない人とは別れます。
お釈迦様は王族の長男として生まれ、何不自由なく生活し、妻も3人いて、子供にも恵まれ、毎日贅沢暮らしをしていたのです。
それでもこの世には苦しみがあるということに気づいて、その答えを探し、見つけた答えが仏教の教えということなのです。
一切皆苦は四法印という仏教の最も大事な教えの一つ
仏教の教えはたくさんあり、何万もの経典が存在します。
後にそれら膨大な教えの中で、最も大事な教えを4つ(もしくは3つ)にまとめたものを四法印(三法印)というようになります。
一切皆苦はこの四法印の中の一つで、この世の真理の一つです。
後程この最も重要な教えについてはご紹介いたします。
お釈迦様はこの苦しみにあふれた世界の苦しみから逃れる方法について語ってくださっています。
一切皆苦と四苦八苦のそれぞれの意味
一切皆苦の言葉で言い表される仏教の苦しみを具体的に8つにまとめ「四苦八苦」という言葉で表されています。
お釈迦様が説いた、この世の苦しみの四苦とそこに4つの四字熟語で表す苦しみについてご紹介いたします。
四苦
人なら誰しも避けることができない、四つの根本的な苦である「生老病死」という苦が四苦です。
誰も避けることができない、自分の思い通りにはならない苦しみです。
生苦
生まれついたこと、生きていること自体が苦というのです。
これはこの後見る、四苦やそれを含めた八苦だらけのこの人間界にいるということは、生まれついたこと自体が苦だということです。
これだと人間の人生全否定になってしまいますが、きちんとその解決するために持つべき考え方などもお釈迦様は説いてくださっていますのでご安心ください。
老苦
老苦は意識しやすいと思いますが、老いていくことが苦だというのです。
人によって捉え方はあると思いますが、お釈迦様はこの「老」という苦しみはとても根源的な苦しみと考えました。
病苦
病苦も分かりやすいと思います。
人であれば病による苦しみを得るということです。
死苦
最も根源的な苦しみの一つである死ぬことの苦しみです。
仏教に限らず、世界の宗教の多くは死というものを様々な捉え方をしていますが、仏教では死は避けられない苦しみであり、この苦しみをどのように乗り越えるのかということを解説してくれています。
ちなみに、四苦は最も根源的な苦ですが、他にも仏教では二苦や三苦という苦しみの概念もあります。
生老病死という四苦についてはこちらで詳しく解説しています
生老病死とは|お釈迦様が説く意味・仏教の四苦八苦の教えについて
八苦となる苦を意味する四字熟語
四苦に加えて以下の四つの苦しみによって、人生は思い通りならない苦しみを得るのです。
愛別離苦(あいべつりく)
愛別離苦とは愛する人といつかは別れが来る苦しみを意味します。
家族、恋人、友人、師弟などとの別れはとても苦しいものです。
愛してやまない人と一緒になることができて、とても幸せを感じていても、愛が深ければ深いほど、その別れの苦しみも深くなります。
お釈迦様が入滅(亡くなること)された際、お釈迦様の十大弟子と呼ばれる優れた人の一人であるアーナンダ(阿難)はお釈迦様の最も近くで教えを受けていましたが、お釈迦様がいざ亡くなる時には悲しんだそうです。
愛別離苦についてはこちらで詳しく解説しています。
愛別離苦とは|意味や読み方,お釈迦様が説く乗り越える方法を解説
怨憎会苦(おんぞうえく)
恨み・憎しみの感情を抱いてしまうような人と出会ってしまう苦しみを意味します。
人はほぼすべての人が一人だけでこの世に生きていくことは難しく、色んな人と関りながら生きていきます。
その中には、愛する人・気が合う人となるようなとてもいい人達との関係も生まれますが、中にはどうしても理解できない人、恨みや憎しみの感情を持つような人との出会いもあるでしょう。
求不得苦(ぐふとくく)
求めたものが手に入らないことの苦しみを言います。
思い通りならない苦しみと言うと、求不得苦がイメージしやすいかもしれません。
お金や地位、名誉、恋人関係、様々なことにおいて、自分の力を尽くしても手に入らないことで苦しむこともあるかもしれません。
また、それらを一度手にしてとても幸せな感情に浸ったとします。
しかし、その手にした幸せで満足し続けることができないのが人間の性です。
人間の脳の働きでも、”慣れ”があるので、常に同じ場所に居続けることはできず、また新しく何かを得ようと考えます。
しかしその新しいもの事がすぐに手に入るものではないのであれば、一件幸せそうに見える人でも苦しみを抱くのです。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
五蘊とは、
- 色(しき):体、肉体
- 受(じゅ):感受、物事を見聞きしたり感じた時の感覚、感知すること、感じること
- 想(そう):表象、知識のようなことで、「受」で感知したものが何なのかを頭の中の知識に照らしてイメージすること
- 行(ぎょう):意志をもって行動に移す心の動きのこと
- 識(しき):認識、物事に対して湧いてくる心の動きのこと
すこし簡単な説明で余計にこんがらがってしまいそうなので、具体的な例を挙げて、五蘊について解説します。
<色>
体は動きます。そして体が動いた結果、例えば公園についたとしましょう。
この時点では特に何も考えずただ体が動いた結果公園にいたとします。
<受>
公園に行くと、小さい声を上げる”何か”がいることに気づきます。
この時はこの”何か”は目に入って来る映像、耳に入ってくる音だけの存在です。
<想>
眼に入ってきた映像と耳に入ってきた音は、”小さな子供がこけて泣いている”のだとわかります。
<行>
小さな子供の近くに行き、起こしてあげるという意思を持ちます。
<識>
小さな子供が泣いている姿を見て、「可哀想に、助けてあげないといけない」と受・想で理解した状況に感情が湧くというのが識です。
上記の例を見てわかるように五蘊の中でも、受想行識とは心の作用をとても細かく分けた物ということです。
私たちが物事を感知してその状況を判断し、そこに感情が働いて行動に移す、たった一瞬の出来事を色受想行識という5つのステップに分けたのが五蘊なのです。
この五蘊で分けたステップは、総称して自分の体と心だと感じているものですが、この自分の体と心だと感じている五蘊が苦しみを生むのです。
これが五蘊盛苦です。
肉体は四苦にある生老病死の苦しみを持ち、精神は様々な恨みや憎しみの感情など苦しみの原因を生みます。
五蘊についてや、五蘊盛苦などはこちらで詳しく解説しています。
五蘊とは|意味や五蘊盛苦/五蘊皆空等の仏教用語をわかりやすく解説
また四苦八苦についてはこちらで詳しく解説しています。
四苦八苦の意味とは|語源となる仏教の教えや四苦八苦するの使い方など解説
一切皆苦を脱するには
一切皆苦という苦しみにあふれたこの世界を脱するために何をすればいいのかをお釈迦様は説いています。
それは徹底的な原因の追究によってお釈迦様が明らかにした、この世の真理を知ることです。
一切皆苦の原因:諸行無常と諸法無我
この世の苦しみから解き放たれるために知るべき、この世の心理は「諸行無常と諸法無我」この二つの四字熟語に現れています。
この二つは、よく似た言葉ですが、簡単に言うと以下のようになります。
諸行無常の意味
すべてのものは常に変化する。永遠であるものは存在しない。
諸行無常についてはこちらで詳しく解説しています。
諸行無常の意味とは|平家物語の”諸行無常の響きあり”の意味も含め簡単に解説
諸法無我の意味
すべてのもの事(=諸法)は、互いに影響をし合い、何一つとして単体で存在するものはない(=無我)。実体はない。
諸行無常と諸法無我は簡単な言葉では説明しきれない概念ですが、わかるととてもシンプルでどんな人でも理解できるものです。
簡単な例で、私たちは絶対に老いて行きますし、死にます。
そして、私たち人間という存在は他の人や物事が存在しないと生きていけません。(仏教用語で縁起と言います)
完全に自給自足し、サバイバル生活をしていて人と関わらないという人も、その人が存在するためには、親がいて、生きるために他の動物や植物の命をいただいています。
必ず、どんな人も直接的な原因である因と周りの環境などの間接的な原因である縁がという因縁があって存在しています。
諸行無常と諸法無我の世界で生きていれば、思い通りにならないことで苦しむことは絶対に避けられないですよね。
逆に言うと、思い通りにならないことで苦しむのは、諸行無常であり諸法無我という世界に生きているんだから当たり前と理解することで無くしていくことができるというのです。
諸法無我の意味やお釈迦様説くこの世界の本当の姿についてはについてはここだけでは説明しきれないものです。こちらでわかりやすい例で解説しているのでぜひご覧ください。
諸法無我とは|意味や簡単にイメージできる例で説明。諸行無常との関係とは
一切皆苦の世界から苦しみのない涅槃寂静という境地
諸行無常と諸法無我というこの世の理解し、苦しみを生む原因となる煩悩に悩まされないようになると、涅槃寂静という苦しみのない安らかな世界に行くことができます。
この涅槃寂静という苦しみのない安らかな悟りの境地(涅槃の境地)に至り、苦しみから解放されようというのがお釈迦様の教え、仏教です。
涅槃寂静についてはこちらで詳しく解説しています。
涅槃寂静の意味とは仏教の最終目標|読み方/概念をわかりやすくご紹介
仏教の最も大事な教えの「四法印」
仏教は四字熟語や漢字が並んで呪文のようなお経を唱え、堅苦しいもののように感じてしまいますが、教えはとてもシンプルです。
仏教は「苦しみばっかのこの世界、どうやって苦しみから解放されるか、教えます!」という宗教です。
この仏教の教えを言い表した言葉が、
今回解説している一切皆苦と諸行無常と諸法無我、そして涅槃寂静という四つの言葉なのです。
この四つは仏教の最も大事な教えの四法印と言います。
もう一度まとめると、
一切皆苦:この世は苦しみばっかり、それは私たちの思い通りにならないことから生まれるもの。
↓
思い通りにしたいといった考え(欲望)が苦しみを生む
でも世の中は思い通りにならない、それはなぜか?
↓
諸行無常・諸法無我:この世のものは全部変わっていき、永遠に同じものはないし、一つだけで単体で存在しているものは存在しない。
→そもそも思い通りになるはずがない世の中である
↓
この世の中の真理に気づけば苦しみを生み出す、思い通りにしたいなどの欲望を持つことは無駄だとわかります。
そして欲望、仏教用語の「煩悩」を無くします。
↓
涅槃寂静:仏教の最終目標である、苦しみから解放された、心が穏やかに苦しみのない悟りの境地に達することができる。
かなり端的に仏教の教えをまとめるとこのようになります。
お釈迦様はたくさんの教えを残していますが、最も基本的な考え方は四法印の四つにまとまっているのです。
「一切皆苦」は中身を知らない字面だけでも、嫌な意味を持っているとわかりますし、内容を見ても四苦八苦のような具体的な人生の苦しみをまとめられていて、気が滅入りそうになるかもしれません。
しかし、人生が苦しみばかりということがわかって、その原因を知って苦しまない生き方を身に着けようとする仏教はとても論理的で合理的な考え方を提示してくれているのです。
一切皆苦の基本的な解説はここまでですが、プラスαで一切皆苦にまつわる情報をご紹介します。
一切皆苦と一切皆空
一切皆苦と一切皆空は全く意味が違います。
一切皆空も一切皆苦に並び、仏教のとても大事な教えなのですが、若干理解しづらいものです。
ただ、ここまで読んでいただいた方なら、一切皆空の意味も理解できると思います。
一切皆空の意味は、すべてのものは「空」であるということ。
つまり、この世のもののすべては実体はない(=空)なのだということですが、とても分かりにくいと思います。
これは諸法無我と同じ概念と考えてください。
ここでは説明が長くなるので、続きはこちらで詳しく解説しています。
諸法無我とは|意味や簡単にイメージできる例で説明。諸行無常との関係とは
ちなみに、一切皆空という教えは、私たちという存在自体も「空(=実体がない)」と考えます。
つまり五蘊という体と心の働きも、実体がないというのですが、これだと、意味が分からないですよね。
この概念について、上記のリンクの中で引用させていただいた、笑い飯の哲夫さんの本の一節で解説しています。
東京大学や、寺院でも仏教の講義をされていて、たくさんの人に笑いを届ける言葉のプロである哲夫さんの解説ですので、とても分かりやすいです。
ちなみにこちらの本を参考にさせていただいてますので、興味がある方はぜひご覧ください。
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一切皆苦のパーリ語の理解
一切皆苦という四字熟語でお釈迦様の教えを表現していますが、お釈迦様はサンスクリット語やパーリ語というインドの言葉で教えを説いたと言います。
このパーリ語で一切皆苦を解説している中で特徴的なのは、
「苦」と訳される言葉は「ドゥッカ」と言います。
これはただ「苦しい」という日本語の訳以上に、
- 痛み
- 不満
- ストレス(緊張)
と言った、満たされない感覚という意味を持つとされます。
漢字一つの「苦」で訳出されていますが、もっと深い心の動きによって生まれる様々な負の感情ととらえてもいいかもしれません。
これは、途中解説した「我」という漢字が当てられている「実体のないもの」を意味する言葉でも同じです。
仏教の根本的な考えである無我は私たちが普段使う「我」とは違う意味を持っています。詳しくはこちらで解説しています。
無我の意味とは|仏教の無我とは深い世界観は苦しみから逃れる鍵
一切皆苦の英語表現
一切皆苦は英語に直訳する言葉がありません。
先ほどパーリ語という言葉をご紹介しましたが、このパーリ語の「ドゥッカ」は日本語の「苦」では表現しきれないのと同じように、英語でも完全に同じ意味を持つ言葉は存在しません。
英語で、一切皆苦の「苦」に相当する言葉としては、
- suffering
- pain
- unsatisfactoriness
- stress
- uneasy
- uncomfortable
- unpleasant
などなどと訳語を持つようです。