猿田彦大神(サルタヒコ)とは|ご利益や神社・様々な説をご紹介

猿田彦-サルタヒコ

猿田彦(サルタヒコ)とは|ご利益や神話をご紹介

猿田彦大神(サルタヒコ)は日本神話に出てくる重要な神様で、謎の多い神様です。

日本の神様が姿が描かれないのが一般的ですが、猿田彦(サルタヒコ)は神話の中でしっかりと姿が描かれます。

その姿から、

  • 天狗と言われたり
  • 日本土着の太陽神として信仰された神様だったと言われたり
  • 外国から来た人を表しているとされる

など様々な説が生まれます。

今回はそんな猿田彦大神(サルタヒコ)について詳しく解説していきます。

猿田彦大神(サルタヒコ)のご利益

猿田彦大神(サルタヒコ)は神話の物語から、「みちびきの神、みちひらきの神」として祀られ、様々な人や物事を幸福へと導く神様として崇められます。

そんな猿田彦大神(サルタヒコ)のご利益は以下のものがあります。

  • 交通安全
  • 建築
  • 厄除開運
  • 商売繫盛
  • 出世開運
  • 合格・学業成就
  • 恋愛成就・縁結び

等々、あらゆる物事で良い方向に導くと考えることから猿田彦大神(サルタヒコ)という神様のご利益は多方面に広がっています。

猿田彦(サルタヒコ)の神話

猿田彦大神(サルタヒコ)が出てくる日本神話の場面をご紹介いたします。

天孫降臨で猿田彦(サルタヒコ)が登場

猿田彦(サルタヒコ)が出てくるのは、天孫降臨という場面です。

大国主命(オオクニヌシノミコト)から今の日本にあたる葦原中津国の統治を引き受けた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は治める神様として、孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊/邇邇芸命)を送りこみます。

このことを高天原という天界に住むアマテラスオオミカミという津神最高神のニニギノミコトが地上界の葦原中津国に降臨するので、「天孫降臨」と言います。

アマテラスオオミカミはまだ若いニニギノミコトの手助けをしてくれる神様としてオモイカネ(思兼神)アメノウズメノミコト(天鈿女命)と言った神様も天孫降臨ご一行に入れ、地上界との境界まで見送りに行きます。

すると、上は天界の高天原、下は地上界の葦原中津国までを照らす見慣れぬ神様が道中に居たのです。

アマテラスオオミカミはアメノウズメに「あなたはか弱い女性ではありますが、他の神にはない強さを持っています。『(立っている神様に)誰ですか』と聞いてきてください」とおっしゃいます。

そうしてアメノウズメは猿田彦(サルタヒコ)に声をかけに行くのでした。

ここまでは古事記の記述なのですが、日本書紀だとかなり面白くなっています。

日本書紀のある書によると、ニニギノミコト御一行が天八達之衢(あめのやちまた)というたくさんの道に分かれ岐路に着こうとしたとき、先を行っていた物見が帰ってきて、

「其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也(鼻が異様に長く、背が2メートルもあり、目と口と尻が光っていて、目は八咫鏡のように大きく真ん丸で、眼が赤く光っている)」

と異様な猿田彦(サルタヒコ)の姿を説明し、一行に注意をします。

すると、アメノウズメがこの異様な姿をした猿田彦である謎の神様に「あなたは何者ですか?」と胸をさらけ出して、女性器も見せた状態で向かっていったのです。

猿田彦(サルタヒコ)とアメノウズメのやり取り

猿田彦(サルタヒコ)はアメノウズメの問いに対して、

「私は国津神(地上の神)で猿田彦と申します。天津神のご子息が天界より下ってくると聞いたので、道案内をと思いここで待っていました」と答えます。

この言葉を信じ、猿田彦(サルタヒコ)に連れられてニニギノミコト御一行は「筑紫日向高千穗の峰(鹿児島県の霧島山や宮崎の高千穂等諸説ある)」に連れていきます。

このことを啓行(みちひらき)と言い、猿田彦(サルタヒコ)はこの場面から、導く神様として祀られるようになります。

猿田彦(サルタヒコ)とアメノウズメが結婚

猿田彦(サルタヒコ)はニニギノミコト御一行を道案内してのち「伊勢之狹長田五十鈴川上」というところに帰りますと言って帰るのですが、道案内をした猿田彦(サルタヒコ)にアメノウズメがついていく形で一緒に伊勢の狹長田五十鈴川上という場所に行くことになります。

そして、ニニギノミコトの命によって、アメノウズメは名前を変えて猿女君(猨女君)となります。

この猿女君というのは、朝廷の祭祀を司る氏族でアメノウズメを始祖とする由緒正しい家柄です。

具体的に結婚をしたということは書いていないのですが、伝統的に結婚して姓を変えるということをしたことから結婚をしたと考えられています。

ちなみに結婚で姓を変えた初めての神様とアメノウズメは言われます。

そのため猿田彦(サルタヒコ)とアメノウズメは夫婦和合、縁結びの神様としてもとても有名です。

猿田彦(サルタヒコ)は道案内をして、伊勢の狹長田五十鈴川上の地に来てから、阿邪訶(あざか)というところに住んでいたのですが、ある時比良夫貝という貝に手を噛まれて溺れて死んでしまったとされます。

さて、猿田彦(サルタヒコ)の神話の中の記述について簡単にご紹介しましたが、猿田彦(サルタヒコ)に関して、具体的な地名(伊勢の狹長田五十鈴川上)がありましたが、それらの地には猿田彦(サルタヒコ)の子孫が宮司を務め、猿田彦大神を祀る神社が今も残っています。

それら以外の神社も含め、猿田彦(サルタヒコ)を祀る有名な神社についてご紹介いたします。

猿田彦(サルタヒコ)を祀る神社

猿田彦(サルタヒコ)の伝説が残る神社、猿田彦(サルタヒコ)を祀る神社として有名な神社をご紹介いたします。

猿田彦神社(三重県伊勢)

三重県の伊勢市にある猿田彦神社は、猿田彦大神の子孫が宮司を務める神社です。

猿田彦神社は、伊勢の五十鈴川の上流に位置する場所に創建される神社で、猿田彦(サルタヒコ)がニニギノミコトを道案内した後に住んだとされる伊勢の狹長田五十鈴川上の記述にも合います。

さらに猿田彦神社の宮司である宇治土公宮司家の祖の大田命は、猿田彦神社のすぐ近くにある伊勢神宮にこの伊勢と言う地を勧めた人です。

猿田彦(サルタヒコ)の子孫が、アマテラスオオミカミを祀る場所の道案内をしたのです。

このことは猿田彦(サルタヒコ)がアマテラスオオミカミを導いたと解釈され、猿田彦(サルタヒコ)の導きの神としての神格が強調されます。

宇治土公宮司家は伊勢神宮の中の玉串大内人(たまぐしおおうちんど)という特別な職についていた一族だったのが、後に猿田彦神社を創建し、今に至ります。

猿田彦神社の公式ページ

ちなみに猿田彦神社では、結婚したと考えられるアメノウズメノミコトを祀る佐瑠女神社(さるめじんじゃ)があり、芸能の神様、良縁・恋愛の神様として崇敬を集めています。

椿大神社(三重県鈴鹿)

椿大神社は「つばきおおかみやしろ」と読みます。

この椿大神社は全時刻2000社あるとされる猿田彦大神(サルタヒコ)を祀る神社の総本宮とされる神社です。

椿大神社の境内には高山土公神陵という猿田彦大神(サルタヒコ)のお墓とされる御陵があり、椿大神社の宮司はその墓を神代から守る猿田彦大神(サルタヒコ)の子孫とされます。

創建は垂仁天皇の御代、起源前とも言われるとても古い神社の一つです。

椿大神社の公式ページ

二見興玉神社(三重県伊勢)

二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)もご祭神が猿田彦大神(サルタヒコ)の神社です。

伊勢の観光名所の一つの夫婦岩で有名な神社です。

この夫婦岩はそこからさらに沖合に沈む、霊石「興玉神石」の鳥居になると考えれています。

この興玉神石は猿田彦大神の所縁の神石とされていて、古くから信仰を集めています。

ちなみに二見興玉神社では、夏至の日に夫婦岩の間から昇る太陽を拝む夏至祭というものが行われます。

古くはこの地の地主神とされていた猿田彦大神(サルタヒコ)は太陽神として祀られていたとも言われるのですが、その一つの表れかもしれません。

それゆえ天界から地上界までを光照らしていたという古事記の表現があるのかもしれません。このあたりは後ほど詳しく解説いたします。

住所:三重県伊勢市二見町江575

三重県の二見興玉神社の観光サイト

都波岐奈加等神社(三重県鈴鹿)

都波岐神社(つばきじんじゃ)と奈加等神社(なかとじんじゃ)が明治時代に合併してできた都波岐奈加等神社もまた、猿田彦(サルタヒコ)を祀る神社です。

都波岐神社は、一ノ宮と言う、延喜式という平安時代の書物にて神社の格式で最も高い位にあった神社です。

都波岐神社も奈加等神社も創建は雄略天皇の御代で、今から1600年前ほどです。

住所:三重県鈴鹿市一ノ宮町1181

日枝神社(東京)

東京の日枝神社は境内に庚申様(こうしんさま)と言い、猿田彦大神(サルタヒコ)をお祭りしています。

庚申様とは猿田彦大神(サルタヒコ)のことです。

庚申(かのえさる)というのは、十干十二支の一つで、暦にそれぞれ十干と十二支が割り振られ60日に一度回ってきます。

その庚申の日は猿田彦大神(サルタヒコ)のご縁日となり、道開きの神様である庚申様のご利益に預かれるようにということで参拝をするようになります。

参考:庚申祭 日枝神社

庚申様という、厄除け・病気平癒などのご利益で祀られる神様についてはこちらで詳しく解説しています。

庚申とは|庚申塚や庚申様などの信仰・庚申の日/性格占いの庚申を解説

猿田彦神社(福岡)

福岡の猿田彦神社では、ここにしかない猿面という授与品があります。

猿面を玄関に飾ると、魔が”去る”と言われ、縁起物となっています。

福岡県の猿田彦神社の公式ページ

他にも滋賀県の白鬚神社(しらひげじんじゃ)など、とても歴史のある猿田彦大神(サルタヒコ)を祀る神社は多くあります。

猿田彦(サルタヒコ)の伝説や様々な説

猿田彦(サルタヒコ)という神様について、一般的に知られる情報を中心にご紹介してきました。

ここからは、古くからたくさんの議論があり、たくさんの説を持つ猿田彦(サルタヒコ)という神様について詳しくその説をご紹介していきます。

日本の神は見た目を具体的に想起させる表現が神話内でないにもかかわらず、猿田彦(サルタヒコ)という神様のは、しっかりと描写されます。

この時点で独特であり、神話の出てくるタイミング、登場の仕方もとても注目すべきポイントが多い神様です。

そんなこともあってか江戸時代ごろから活発な議論がされてきました。

猿田彦大神(サルタヒコ)の別称

まず、猿田彦(サルタヒコ)には、様々な別称があります。

猨田毘古神、猨田彥大神という旧字体の別表記以外にも、

途中出てきた庚申神を筆頭に、同一視される神も含めると

  • 庚申神・庚申様
  • 衢の神(ちまたのかみ)
  • 土公神
  • 佐田彦大神
  • 塞神
  • 白髭大明神
  • 道別大明神
  • 椿大明神

といった神名があります。

そんなたくさんの側面を見ることができる猿田彦(サルタヒコ)の最も有名な天狗の説から見ていきましょう。

猿田彦(サルタヒコ)と天狗

猿田彦(サルタヒコ)は日本書紀の記述から、眼が爛々と赤く光る大きな目で、日本では天狗の方がイメージにあると思います。

猿田彦 サルタヒコ 天狗 画像

ちょうど同じような姿をしていますね。

この天狗と言うのは、11世紀から12世紀頃に日本の書物に出てくるのですが、病をもたらしたり、山で修行をする修験者の邪魔をする存在として現れます。

ただ、天狗のイメージは鎌倉時代に入ると、超人的な力を持つ正義の存在もいると考えられるようになります。

それが源義経と天狗が修行したという伝説にもなります。

猿田彦(サルタヒコ)と天狗が同一視されるのは、見た目だけの話で、あまり性格も似ておらず本質的に同質とは言い難いと言えます。

ちなみに、天狗の見た目は仏教の天部という神様のグループに属する迦楼羅(かるら)というを食べるという巨鳥の姿を元にしていると言われます。※一説です

迦楼羅は八部衆という仏教を守護する神様として仏像にもなっていて、迦楼羅立像の画像はこちらに掲載しているのでぜひご覧ください。

八部衆(天竜八部衆)とは|阿修羅に代表される興福寺乾漆八部衆立像も解説

※ちなみに天狗と言う言葉自体は奈良時代頃から中国からもたらされるのですが、その時は流れ星の一種で全く別物です。

猿田彦(サルタヒコ)は日本土着の神・太陽神等

猿田彦(サルタヒコ)に限らずですが、古事記・日本書紀という書物は、日本の支配者である大和朝廷の正統性を表すものだという考えから、神様として出てくる存在は実際に存在した部族の首長だったと考えられます。

例えば最初に出てきた、大国主命という神様は出雲大社に祀られますが、元々出雲の地にあった王朝の存在を意味し、大和朝廷と対立してたが協定を結んだかなんらかの理由で大和朝廷に下ったとされるというのは有名な説です。

猿田彦(サルタヒコ)もまたそういった古代の部族だったのではないかとも言われます。

そこで、古事記・日本書紀に加えその他の地方の伝承などを踏まえて猿田彦(サルタヒコ)とは実際どんな神様だったのかという議論が活発にされる中で、最も有名な話の一つに江戸時代の国学者の本居宣長の弟子、平田篤胤(ひらたあつたね)による

「猿田彦(サルタヒコ)は出雲の佐田大神と同一だ」という説があります。

猿田彦の「猿」も動物の猿ではなく、出雲にあった佐田という地名の佐から猿という名前になったと主張しています。

ただ佐田は伊勢にもある地名なのでこの説はあくまで一説にすぎません。

猿田彦(サルタヒコ)は沖縄に由来する説

松岡静雄という日本民俗学を発展させた柳田邦男の弟は猿田彦(サルタヒコ)というのは、沖縄の方言で「サダル(導く)」という言葉が変化したものだと言いました。

猿田彦(サルタヒコ)は海人族のこと・それらが信仰した太陽神

猿田彦(サルタヒコ)は日本に土着だった民族の一つで、大和朝廷と仲良くしたグループやそのグループが信仰した神様なのではと考えられます。

猿田彦(サルタヒコ)が最後亡くなったと考えられる貝の物語もその一つの裏付けと考えられるのです。

それらの部族が信仰した太陽神というのは、古事記の表記から見てもアマテラスオオミカミ以外で太陽のように天地を照らすという姿をしている猿田彦(サルタヒコ)の表記からもあり得る説と言えます。

二見興玉神社で太陽を信仰する姿が残っていますが、この伊勢の地に大和朝廷が支配する以前に存在した部族が信仰ていた神様が猿田彦(サルタヒコ)となったのかもしれませんね。

二見興玉神社の霊石であり、猿田彦(サルタヒコ)に由縁があるとする興玉神石の方角から太陽が昇り、それを拝むというのは意味深と言えます。

猿田彦は道祖神という日本各地で信仰された神さまとも

猿田彦(サルタヒコ)は日本の民間で信仰されていた神様の道祖神とも同一視されます。

道祖神は出自が不明で、いろんなところで見られる神様ですが、境界に立っているお地蔵さんのような石像がある神様です。

道祖神が境界に多く祀られることと猿田彦(サルタヒコ)が神話で天と地の境界にいて道を案内したことなどの同一性もあります。

他にも、平田篤胤や、柳田国男などが様々な説を出していて、古事記の編纂者の稗田阿礼(ひえだのあれい)は猿田彦の妻のアメノウズメの子孫である猿女の一族ではないのかと言われているなどとても興味深い話が多くあります。

猿田彦(サルタヒコ)は外国人

猿田彦(サルタヒコ)の異様な姿は外国人を元にしているのではないのかという説があります。

この説の中には、かなり乱暴な推論も見受けられるのですが、なぜそのような説が出てきたのかを簡単に理由を挙げて起きます。

  • 猿田彦(サルタヒコ)の姿に近い神楽で利用される面(伎楽面)の赤い顔で鼻が高いのはギリシャなど白人の姿を現しているという説があり、猿田彦(サルタヒコ)もまた外国人ではないかと言われる
  • 猿田彦(サルタヒコ)の登場シーンがインドの神話に似ている箇所がある

などなど、猿田彦(サルタヒコ)に関してはたくさんの説があるので参考までに。

結局猿田彦(サルタヒコ)という神様についてはまだまだ分からないことが多いのですが、それがゆえにとても興味がそそられる神様ですね。

猿田彦珈琲の猿田彦は猿田彦大神のこと

最後に、珈琲好きの人なら恵比寿本店に入ったことがあるかもしれない猿田彦珈琲というカフェの名前の由来に猿田彦大神が関わっているという話をご紹介して終わりにします。

社長の大塚さんが語っているので知っているかもしれませんが、ある人のおすすめから、道を開く神様の猿田彦の名前を付けるようにしたそうです。

大塚さんは、猿田彦大神が七福神恵比寿様と同一視されるという説を聞いて、恵比寿に本店を構えることのご縁を感じたそうです。

伊勢の猿田彦神社も猿田彦珈琲のことは知っていて、コラボした「みちひらきブレンド」という引き出物にも利用できるドリップバッグを販売しています。

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