多聞天とは|毘沙門天とも知られる四天王について
多聞天とは毘沙門天の別称で、仏法・仏様の守護神である四天王の一柱です。
今回は多聞天のという仏教の神様とは、どんな由来で生まれたのか。
また、多聞天(毘沙門天)のご利益はご真言、多聞天の仏像を見る際に知っておきたい知識についてご紹介いたします。
多聞天の読み方は「たもんてん」
多聞天と書いて、「たもんてん」と呼びます。
多聞天という漢字の意味には、
「多くを聞く/すべての言葉を聞き逃さない」という意味を持ちます。
すべての言葉とは、多聞天が守護する如来(仏様)の言葉のことで、尊いお言葉をすべて聞く知識に富み、武芸にも富む神様とされます。
多聞天とはどんな存在か
多聞天とはそもそもどんな神様かと言うと、天部という仏教世界における神様のグループに属する存在です。
天部は仏様(如来)や菩薩、明王に続く存在で、仏様や仏教の教え(仏法)を守護する守護神という性質と、人々(衆生)の願いをお聞きくださりご利益(現世利益)をもたらしてくれる福徳神という性質を持つ存在です。
多聞天はその天部の中で、如来や菩薩を守護する四天王の中で最も強い神様としてお経の中で描かれる存在です。
天部という仏教の神様について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
天部とは|仏教の守護神、天部衆の神様の種類や信仰,有名な仏像を紹介
多聞天は仏像はあるが仏様ではない
少しわかりにくいですが、多聞天は仏像はありますが、仏様とは別の神様という存在です。
簡単に仏教世界のイメージをご紹介すると、最も尊い存在として如来(仏様=悟りを開いた存在)がおられます。
菩薩は如来になるため、つまり悟りを開くために修行をしている身です。
明王は、如来の化身として悪を厳しく取り締まり、私たちを正しい道に導く存在です。
これら仏という存在を守るために、天部と言う神様が存在しています。
そのため、仏像はありますが、多聞天はまだ仏という存在ではありません。
多聞天と四天王の仏教世界での役割
多聞天が属する四天王は、仏教世界において如来・菩薩・明王を守護する神様で、仏様や仏教の教えを外敵から守るために存在しています。
そのため、筋骨隆々で恐ろしい顔の像になります。
そして守護をする存在であり、私達人間に近い存在でもあって、如来や菩薩、明王だけでは救いきれない人達を救い、ご利益をもたらしてくれる存在です。
ちなみに、天部という神様の中で、四天王以外にも、八天(十天/十二天)や二十八部衆という千手観音菩薩の守護神としても数えられます。
多聞天の由来
多聞天という神様は、元々はインドの財宝の神様のクベーラ、ヴァイシュラヴァナでした。
このインドの神が、仏教の教えに帰依し仏様、仏法を守護する神様になります。
多聞天が毘沙門天とも言われる由来
多聞天は毘沙門天と同じ神様を意味しますが、これは毘沙門天という神様の名前の由来が、ヴァイシュラヴァナの音を漢訳して付けられ、
多聞天という名前は、ヴァイシュラヴァナの意味である「よく聞くもの」という意味から訳されて付けられたのです。
多聞天と毘沙門天の言葉の使い分け
名前の由来は上記のようになりますが、現在では多聞天と毘沙門天は次の場合によって使い分けがなされます。
- 多聞天
四天王像の中の一柱を指す時に利用される言葉 - 毘沙門天
独尊(お寺の御尊像)として、一柱で祀られる、拝まれる場合の言葉
そのため、多聞天の仏像と言うと、四天王像の中の一つという場合に用いられ、毘沙門天の仏像と言うと、鞍馬寺等御尊像として祀られているお寺などでの呼称として用いられます。
福の神として祀られる毘沙門天と祀られるご利益やその由来等についてはこちらで詳しく解説しています。
毘沙門天とは|ご利益・ご真言・七福神としての意味や信仰の歴史を解説
多聞天と四天王
多聞天は仏法の守護神の四天王の一柱とされますが、四天王という存在やその中での多聞天はどんな意味を持つのかをご紹介します。
四天王は他に持国天/広目天/増長天
四天王は多聞天の他に
という神様がおられます。
それぞれの神様は仏教の世界では、次のような場所を守る神として描かれます。
仏教の世界では、現在私達が澄む世界の中心に須弥山という山が存在するとします。
この須弥山の頂上には、天部の中でも尊いとされる帝釈天という仏法の守護神がいます。
この帝釈天の住まう須弥山の頂上は忉利天(とうりてん)という極楽浄土に近い世界で帝釈天はここにある喜見城(きけんじょう)に住みます。
多聞天を含む四天王は、帝釈天の配下として、この須弥山の麓にて東西南北四方を分担して守護し、外敵から守る役目を担っています。
天部の四天王 | 守る方位 |
持国天(じこくてん) | 東 |
増長天(ぞうちょうてん) | 南 |
広目天(こうもくてん) | 西 |
多聞天(たもんてん) | 北 |
この守る方位と須弥山という世界観を知ると、多聞天の仏像を鑑賞するときにさらにその世界観が理解でき楽しいものになりますので、ぜひ覚えておいてください。
ちなみに、須弥山の北方の守る場所を厳密には北倶盧洲(ほっくるしゅう)と言います。
多聞天以外の四天王についてもさらに詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
四天王とは|四天王像の見所や毘沙門天を含む仏教の守護神を解説
多聞天は四天王最強の神
多聞天は他の四天王の中で、最強の神様として描かれます。
配下に夜叉や羅刹と言った鬼神を従える
多聞天に限らず、四天王はそれぞれに鬼や龍と言った、配下(眷属)を従えています。
その中でも有名な眷属は八部鬼衆と呼ばれます。
多聞天の配下(眷属)は
- 夜叉(やしゃ)
- 羅刹(らせつ)
と言われます。
ちなみに、夜叉と羅刹にも複数の存在があり、八夜叉等の眷属がいます。
ちなみに、他の八部鬼衆(乾闥婆(けんだつば),毘舎闍(びしゃじゃ),鳩槃荼(くばんだ),薜茘多(へいれいた),那伽(ナーガ)=龍王,富單那(ふたんな))は他の四天王の眷属として描かれる有名なものを意味します。
ちなみに、御尊像として祀られる時の毘沙門天の眷属には妻と描かれる吉祥天や子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)なども含みますので、四天王の中の多聞天の眷属とは少々違いがあります。
多聞天(毘沙門天)の妻とされる福の神:吉祥天について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
吉祥天のご利益/ご真言や祀られる神社/寺を紹介|有名な吉祥天女像も解説
多聞天のご利益(毘沙門天のご利益)
多聞天のご利益、つまり毘沙門天のご利益は軍神のイメージが強いですが、商売繁盛などもあります。
有名な多聞天のご利益をご紹介しますと、
- 戦勝祈願(現在なら開運長久等)
- 商売繁盛
- 財運・金運
- 心願成就
- 厄難消除
等々
由来となった、インドの神様が財宝の神様であったことから、商売繁盛や財運や金運の神様としても知られます。
多聞天・毘沙門天のご真言
多聞天と言うと、拝む対象となる御尊像ではありませんので、毘沙門天のご真言と言われますが、次のものがご真言です。
「おん べいしら まんだや そわか」
「のうまく さんまんだ ぼだなん ばやべい そわか」
宗派によって、寺院によって表記が変わる可能性がありますので、ご真言を御尊像に向かい唱える場合は確認をしてください。
上杉謙信や楠木正成等の信仰
多聞天は上杉謙信や楠木正成と言う、歴史上の智・仁・勇に優れた武将に信仰された神様です。
有名なのは、上杉謙信は毘沙門天の生まれ変わりだとして、幟(のぼり)には黒字に白い字で毘沙門天の毘の字をつけていました。
また楠木正成は幼名を多聞丸と言い、多聞天のご利益にあずかる意味でつけられたと言われます。
また、四天王の信仰の起源となるのは聖徳太子の戦勝祈願によるものとされます。(このことは後述しますが、毘沙門天を筆頭に四天王へ祈願した聖徳太子は戦争に勝利します。)
多聞天は七福神となる
多聞天は武神としてよりも、七福神の中の招福の神として描かれる方が今では有名かもしれません。
多聞天が七福神という福徳神として描かれるようになったのは、毘沙門天を御尊像に祀った鞍馬寺が平安時代に朝廷等のご親交が厚く、その後身分の貴賤を問わず招福の神として拝まれるようになり、福の神として七福神に数えられるようになったとされます。
七福神の歴史等についてはこちらで詳しく解説しています。
七福神とは|ご利益,名前の意味等解説 布袋/恵比寿/大黒天/毘沙門天/弁財天/福禄寿/寿老人
初寅の日は多聞天を参る日
ちなみに、多聞天/毘沙門天を祀る寺院では様々な年中行事が行われていますが、その中でも多聞天の眷属である虎(寅)の日の参拝が良いと言われます。
特に、初寅という年始最初の寅の日には、福掻きなどの授与品が有名であったり、多くの人が参拝します。
ちなみに、来年2019年の初寅は1月5日です。
稲荷神社の初午も有名ですが、毘沙門天を祀る寺院での初寅もまた大盛況です。
多聞天の仏像について
多聞天の仏像について特徴や手に持つ物の意味などをご紹介します。
多聞天像の像容
こちらの写真は東大寺の多聞天像の画像です。
多聞天の像容は、まず武人像(武人形)と言われ、鎧を付け、筋骨隆々の険しい顔(忿怒相)をしたものが一般的です。
中国では色とりどりの多聞天像があります。
多聞天の持ち物
多聞天の仏像は、ほとんどの場合片手に宝塔(仏舎利の納められた塔)を持ち、もう片手に剣や鉾など(宝棒や戟と表記される)武器を持っています。
武器などについては武人の性格を持つことから多聞天の仏像に用いられれますが、時々武器を持たない像もあります。
もう一方の持ち物である、宝塔/仏舎利はとても大事な意味を持ちほとんどの像が持っています。
多聞天が持つ宝塔(ストゥーパ)・仏舎利の意味
宝塔はストゥーパとも呼ばれます。
宝塔は一般には仏閣に見られる釈迦の遺骨(=仏舎利)を入れた入れ物を塔上部に収めた建造物を意味します。
「仏舎利」という釈迦の遺骨や灰など、釈迦の入滅後(死後)に分けられたものが様々な経緯で各地に広がり、その仏舎利を入れた入れ物を塔に祀り宝塔やストゥーパと呼ばれるようになります。
宝塔は舎利塔とも言われるのですが、多聞天の仏像では武器のもう片手にはこの釈迦の遺骨、仏舎利を祀る宝塔を持っている像がほとんどです。
多聞天像の下にあるのは邪鬼
多聞天の像は足元は地面についているものと、足元に邪鬼がいてそれらを踏んでいる像があります。
これらの邪鬼は四天王に調伏された鬼たちで、多聞天や四天王の武威を象徴し、仏法を侵そうとしたものが踏みつけられています。
中には、にんまり口角が上がっている邪鬼もいますので、多聞天像や四天王像を見るときはぜひ注視してみてください。
多聞天像と須弥壇
多聞天の仏像は、見た目は仏法の守護神を意味し、釈迦の骨(仏舎利)のある宝塔を掲げているという特徴がありましたが、立っている場所(配置)にも特徴があります。
多聞天像の立つ場所は、仏教世界で世界の中心である須弥山を表現した場所です。
この場所を須弥壇と言います。
須弥壇の真ん中には、寺院によっては如来や不動明王が安置され、それらを外敵から守るように配置がなされています。
多聞天はその須弥壇の北方に配置されます。
ちょうど仏教世界で多聞天が須弥山の北を守っているのと同じで、仏教世界をそのまま現実世界に表現したということです。
須弥壇は、須弥山を意味しますので、神々が坐す神聖な場所です。
ぜひ見られる際はそんな神々しい場所を見ているのだと意識してみてください。
泥足毘沙門天像という珍しい多聞天像(毘沙門天像)
上杉謙信が進行したことで有名な多聞天(毘沙門天)ですが、その上杉謙信がお祀りした御尊像は泥足毘沙門天と言います。
宝塔などを持たない多聞天像(毘沙門天像)です。
この仏像の由来は戦場で戦いに明け暮れた上杉謙信が春日山城という居城に久しぶりに帰ったとき、城内の毘沙門堂に入ると、神聖な堂内に泥の足跡が残っていました。
その足跡は、毘沙門天像の許まで続いており、上杉謙信は「毘沙門天が戦場で共に駆け回ったのだ」と喜び、毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼ぶようにしたそうです。
多聞天の仏像が有名な寺院
多聞天の仏像、つまり四天王像が有名な寺院を一部紹介します。
東大寺|多聞天像
先ほど東大寺大仏殿の多聞天像を見ていただきましたが、東大寺の戒壇堂にも四天王像はあります。
こちらの写真の多聞天像は奈良時代の作風で後生のものに比べ、静かな威厳を持つ像です。
ちなみに、本堂の多聞天像は焼失した本堂を江戸時代に再建した際のものです。
参考:東大寺の公式ページ
法隆寺|四天王像
現存する日本最古の四天王像とされます。
鎌倉時代の作風では荒々しい武神の見た目ですが、法隆寺の四天王像はとても物静かな出で立ちで、帝釈天像などのような貴人形です。
参考:法隆寺 金堂 四天王像
四天王寺|四天王像
四天王寺はその名の通り、多聞天を含む四天王を祀るために建立されたお寺です。
日本で始めて官の号令によってつくられた官制寺院です。
四天王寺の歴史は、聖徳太子が物部氏との戦いの戦勝を四天王に祈願します。
この祈願の際に、四天王像を自ら彫り、それらを祀る寺院を勝利したら建立し、世の中の人の救済をすると誓願します。
四天王のご利益もあり、聖徳太子は無事に戦争に勝利します。
そして、誓願の通り建立したお寺が四天王寺です。
四天王像も日本で初めて作られたのが四天王寺とされますが、残念ながら度重なる戦火や災害によって、伽藍と共に四天王像も失われてしまいます。
それゆえ現在では日本最古の現存する四天王像は法隆寺のものになります。
参考:四天王寺公式ページ
興福寺|木造四天王立像 多聞天像
国宝にも指定される興福寺の南円堂の多聞天像です。
鎌倉時代の作とされ、2mを超える仏像は圧巻です。
参考:興福寺 木造四天王立像
東寺|多聞天立像
東寺の講堂は、須弥山の世界観を再現した荘厳な須弥壇となっています。
東寺の講堂は立体的に曼荼羅の世界観(密教の仏教世界を絵にしたもの)を表現している立体曼荼羅と言われます。
平安時代の作で、四天王像は荒々しく、四天王を配下にする帝釈天は静かなる気迫に満ちており、どの像も今にも動き出しそうな躍動感があります。
筆者の個人的な感想としては、東寺の講堂の世界観は圧倒的なものがあると思いますのでおすすめです。
多聞天(毘沙門天)を御尊像に祀る寺院
先ほどは、多聞天の像を安置する寺院についてご紹介しましたが、続いて多聞天(毘沙門天)を祀る寺院についてご紹介します。
商売繁盛や勝運の神として、古くからご利益があるとして人気の寺院です。
鞍馬寺(京都府)
平安時代に創建され、毘沙門天信仰が全国的に広がる大きな影響を持つ鞍馬寺は毘沙門天を御尊像に祀ります。
鞍馬寺の毘沙門天像は眷属に吉祥天、善膩師童子が脇に配置されています。
源義経が修行をした伝説に、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康も武運長久・戦勝祈願をした由緒のある寺院です。
兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)
鞍馬寺には、御尊像に加え、もう一つの多聞天像(一般には兜跋毘沙門天像と言われる)があります。
普通の多聞天像や毘沙門天像とは違う雰囲気の多聞天像です。
参考:鞍馬寺公式ページ
信貴山朝護孫子寺(奈良県)
日本初の毘沙門天信仰とされる、聖徳太子が四天王に戦勝祈願をした地として有名なお寺が奈良県の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)です。
当時、仏教に反対をしていた物部氏を打つべく蘇我氏と結託した聖徳太子が戦勝の祈願に訪れた由緒正しい場所です。
伝説によれば、多聞天(毘沙門天)の眷属の寅に由縁のある、寅の年、寅の日、寅の刻という多聞天のご加護にあずかること間違いなしともいえるタイミングでの参拝だったとされます。
その後も朝廷の信仰も厚く、毘沙門天信仰の総本山ともいえる存在です。
善国寺(東京都)
関東で有名な多聞天(毘沙門天)を祀る寺院は、東京都新宿区にある善国寺です。
江戸三大毘沙門天と言われ多くの人が参拝する寺院です。
神楽坂の中腹にあり、街のど真ん中ですので、アクセスも良いです。