八咫鏡(ヤタノカガミ)とは|様々な説をご紹介
八咫鏡(ヤタノカガミ)とは草薙の剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と共に三種の神器として皇室に伝えられる宝鏡です。
八咫鏡は現在皇室にはレプリカが、実物は伊勢神宮にあり、2つあります。
この実物の八咫の鏡は現在生きる人で見た人は存在しないというのが通説ですが、実はいるだとか、実物にはある秘密があるとか。。
今回はそんな八咫鏡にまつわる、
- 一般的な神話の物語や
- レプリカ(形代)が作られた経緯や紛失の歴史
- 八咫鏡にまつわる不思議な説
これらをご紹介します。
八咫の鏡とは
まず、八咫鏡(ヤタノカガミ)と呼ばれる宝鏡はそもそもどんなものなのか、
ご神体として祀られる伊勢神宮、八咫鏡が出てくる神話の物語から、次の特徴を持った宝鏡です。
- 日本には実物とレプリカ(正しくは形代)が存在し、実物は伊勢神宮(内宮)にアマテラスオオミカミのご神体として祀られ、レプリカは皇居の賢所にある。
- 天の岩戸の神話の中で思兼神(オモイカネ)の思案で石凝姥命(イシコリドリ)という神様が作成する描写がある。
- 伊勢神宮の神官、天皇陛下もご覧になられたことがなく、現在実物を見た人がいると確証はとれていない。(そのため様々な説は全て憶測)
- 歴史の中で、レプリカは2度皇居から持ち出され、2度の火災にあっている。
八咫鏡は日本の歴史の中でも特に重要な宝物です。
しかし直接見た人がいない、もしくは見たが何も話をしないために、謎が多く残り、様々な説が世の中には溢れています。
神話の中で八咫鏡を意味する言葉
ちなみに、八咫鏡には神話の中で様々な表記があります。
- 八尺鏡(ヤタノカガミ)
- 眞經津鏡/真経津鏡(マフツノカガミ)
いずれも様々な漢字で神々が表記されるのと同じで、八咫鏡を意味しています。
八咫鏡とは別ですが、日本書紀の中で、実は八咫鏡の前に宝鏡が作成されたのをご存知ですか?
この御神鏡は「日像鏡(ひがたのかがみ)」「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」と呼ばれ、和歌山県の日前神宮(ひのくまじんぐう)にアマテラスオオミカミの前霊(さきみたま)のご神体として祀られています。
参考: 紀伊国一ノ宮 日前神宮 国懸神宮 神宮概略
八咫(ヤタ)の意味
八咫鏡(ヤタノカガミ)は実物を見た人、それがどのような形状であったかを説明する人がいません。
そのため、その大きさすらわかっていませんが、八咫(ヤタ)という言葉や、当時の日本人の鏡を作る技術力から次のような推測がされています。
- 八咫(ヤタ)は鏡の具体的なサイズを意味する
咫は日本では「あた」と読み、手を開いたときの親指と中指の先の長さで測ることを意味します。
そこで、「あた」が八のサイズの鏡という説があります。
また、咫は古事記では「尺」と言う漢字があてられているので、八咫は「八尺」という意味(日本の尺(30cm))
中国では咫は約18cmを意味する言葉で、八咫は当時の寸法から計算し150cmほどの円周で直径が46.5cmとする説があります。
ただし、式年遷宮で天皇陛下が持っておられた御樋代(みひしろ)という八咫鏡を納める檜製の入れ物のサイズから、実物は上記の寸法より小さいと考えられています。
- 八咫(ヤタ)の八は具体的な数字ではなく、聖数字の八で、たくさんという意味を表す
日本の神話では、八を具体的な数字として利用するのではなく、八は「たくさん」を意味する言葉としてよく出てきます。
有名なものであれば、「八百万の神々の八」。これは800万柱の神様という意味ではなく、たくさんの神様を意味します。
他にも、大国主命(オオクニヌシノミコト)の「八千矛伝説」の八や「八十神」の八等々、様々な場面で八は、具体的な数字の八を意味していないところがあります。
そのため、大きいサイズを意味する八咫という言葉が利用された可能性があります。
ちなみに八咫烏も同様に大きい烏という意味で八咫がついているというい説がありますね。
八咫鏡(ヤタノカガミ)のイメージ画像
八咫鏡(ヤタノカガミ)が作成された時代は、日本神話を記す古事記や日本書紀の書物の完成するはるか以前と考えられています。
その時代は、弥生時代~古墳時代であると考えられ、卑弥呼のいた時代にたくさんの鏡が出土している時代とも重なります。
八咫鏡が実際のサイズを意味する言葉だったとして、実際直系46.5cmもの大型の鏡が福岡県の平原古墳から「大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう)」として出土しています。
その画像がよく八咫鏡のイメージとして利用されますね。
ちなみに、伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記という伊勢神宮のご由緒を記した歴史書の中にある八咫鏡の記述に文様は「八頭花崎八葉形」とされていて、上記の画像は最も内側の八葉と呼ばれる図柄、その外側の八頭花の図柄から同形の鏡と言われて主張されています。
八咫鏡(ヤタノカガミ)の実物とレプリカの説
後程、八咫鏡の実物とレプリカ(形代)については詳しく解説をしますが、元々天皇の坐す皇居の中にあり、同床共殿(どうしょうきょうでん)として祀られていました。
これはアマテラスオオミカミが天孫降臨をされるニニギノミコトに八咫鏡を授ける際に、「この鏡を私だと思い、同じところで寝て、大事に祀りなさい」と言葉を授けます。
しかし、同床共殿は後に崇神天皇の御代に恐れ多いこととして、別の神聖な場所へ移し奉ることになります。
そして、アマテラスオオミカミのお言葉を守るために、実物とは別に宮中に安置する形代、つまりレプリカの八咫鏡が作成されます。
レプリカと言うと、あまり言い方はよくありません。
形代という、本体となる八咫鏡から分祀され、神力を持つ宝物として、今も宮中の賢所に安置されているのです。
一般的に分かりやすい言葉で以降もレプリカと表記はしますが、このことはお知りおきください。
この形代の八咫鏡は奈良にある鏡作神社にて御神鏡の作成を試み作られた試鏡がご神体に祀られるという説話も残っています。
参考:鏡作坐天照御魂神社
八咫鏡(ヤタノカガミ)とヘブライ語の説
こちらは、明神時代に、八咫鏡を見たという人が複数人現れ、それらの人が八咫鏡の裏にはヘブライ語が記してあったと主張し話題となりました。
明治期に、日ユ同祖論がスコットランド人に発表され、日本の皇室とユダヤ人がつながっているという説が熱狂的な人に支持されています。
こちらの説はすべて確証はないのですが、興味深いと思う人もいると思いますのでご紹介します。
八咫鏡(ヤタノカガミ)の神話
八咫鏡(ヤタノカガミ)が日本の神話の中で、どのような経緯で作成され、どのような経緯で皇室の三種の神器になったのかをご紹介します。
天の岩戸の事件で作成される
八咫鏡(ヤタノカガミ)が作成されるのは、アマテラスオオミカミがスサノオノミコトの狼藉に責任を感じ、洞窟に閉じこもり、世界から太陽が世の中から消え、真っ暗な世界になり、八百万の神々がどのようにアマテラスオオミカミを岩戸から出そうかと考える場面です。
この天の岩戸は思兼神(オモイカネ)という知恵の神様が、作戦を立て、無事にアマテラスオオミカミを洞窟から外に出すことに成功します。
この物語はアメノウズメノミコトが裸踊りをして、盛り上げた部分が有名ですが、実はそれ以外にも様々な神々が力を合わせており、八咫鏡(ヤタノカガミ)も登場し、とても重要な働きをして、います。
八咫の鏡は、この物語の中で、天金山の鉄と天の安河の川上の岩を使って鏡職人祖神となる、石凝姥命(イシコリドリ、伊斯許理度売命という表記も)に作らせます。
そして、榊の枝に八咫鏡を乗せ、アメノウズメノミコトの裸踊りで盛り上がる神々に興味を持って岩戸を開けたアマテラスオオミカミの顔の前にサカキを持って行き鏡にアマテラスオオミカミの顔が移るようにしました。
鏡に映った自分を他の神と勘違いして、よく見ようと体を乗り出したところを、力持ちの神であるアメノタヂカラオが引っ張り出すというものです。
こうして、太陽神が戻ってきたことで世界に光が戻り、世界は救われたという話です。
天の岩戸の物語について、詳しくはこちらで解説しています。
オモイカネ(八意思兼神)は知恵の神様として神話で活躍!神社へのお参りも人気
アメノウズメノミコト(天鈿女命)|踊りで世界を救う神話・神社を解説
天孫降臨の際にニニギノミコトが地上の世界へ
先ほどの天の岩戸で、アマテラスオオミカミを映して世界を救う一助となった八咫鏡はアマテラスオオミカミが納める天界の高天原から地上の国に移されます。
この神話の物語は、天孫降臨と呼ばれる場面です。
大国主命(オオクニヌシノミコト)が今の日本である葦原中津国という地上世界を天津神による愛と慈悲にあふれた国造りのために譲ります。
この譲り受けた地上世界の統治を、アマテラスオオミカミの孫に当たる、ニニギノミコトが任命を受け、天界から地上界へと降臨する場面です。
ニニギノミコトが降臨をする際に、アマテラスオオミカミから、八咫鏡・草薙剣(天叢雲剣)・八尺瓊勾玉という三種の神器(みくさのかむだから)を受け取り、3つの神勅を受けます。
アマテラスオオミカミより宝鏡奉斎の神勅を授かる
3つの神勅の一つが、八咫鏡に関わる重要なもので、宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅というものです。
(アマテラスオオミカミがお渡しになった八咫鏡である)宝鏡を見るときは、私(アマテラスオオミカミ)を見るのと同じように見なさい。
そしてこの鏡は同じ屋根の下、同じ床に必ず置いてしっかりと祀りなさい
古くから「かがみ(鏡)」から「が(我)」を抜き取ると、「かみ(神)」となると言われますが、鏡は神につながる重要なものであるという考えはこの神勅にも表れています。
天孫降臨やニニギノミコトにまつわる物語はこちらで詳しく解説しています
ニニギノミコト(瓊瓊杵尊/邇邇芸命)とは?神話や系図から神社の情報をご紹介
崇神天皇の御代に皇居の外へ(崇神記)
先ほどまでの神話の物語は、神々が活躍する時代のものですが、その後日本書紀では、天皇記という歴代の天皇の時代に起きた事柄を歴史書として今に伝えています。
その天皇記の中の、崇神天皇の御代までは八咫鏡は、ニニギノミコトのご神勅にもあった通り、同じ屋根の下、同じ床において寝るという「同床共殿」というスタイルがとられていました。
しかし、ある時宮中の崇神天皇のいる部屋にアマテラスオオミカミが現れ、他の場所へ移動するようにと告げます。
こうして、崇神天皇の娘の豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ)によって他の地へと移動します。
しかし、伊勢の地に着くまでは、このあと数十年がかかります。
八咫鏡が一度ご鎮座した場所は、元伊勢と呼ばれます。その一つが倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)という表記のある、現在奈良県大神神社の境内社になっている檜原神社(ひばらじんじゃ)です。
※他にも奈良県の笠縫神社、笠山荒神社等々が笠縫邑(やまとかさぬいのむら)と言われます。
参考:檜原神社
垂仁天皇の御代に伊勢神宮へ(垂仁記)
崇神天皇の御代に、伊勢の地にたどり着くことができず、次の垂仁天皇の御代には、垂仁天皇の娘の倭姫命が八咫鏡を持って、ご鎮座にふさわしい土地を探します。
伊勢にたどり着くまでには、大和、伊賀、尾張、美濃、尾張等の国に行きます。
そして、最終的にアマテラスオオミカミのご神託があり、伊勢の地に落ち着くのです。
この倭姫命は、斎宮(さいおう/いつきのみや)というアマテラスオオミカミをお祀りする巫女の初代になります。
八咫鏡(ヤタノカガミ)の歴史
さて、日本書紀で描かれた、神話~天皇記の中で、無事に伊勢神宮に御奉納をされた八咫鏡(ヤタノカガミ)ですが、この後も歴史に翻弄され様々な路をたどることになります。
皇居にレプリカが作成される
先ほど、崇神天皇・垂仁天皇の皇女によって伊勢神宮(一般には伊勢神宮と呼ばれますが、正式には皇大神宮の内宮)に安置された八咫鏡ですが、同床共殿の神勅を守るために形代(レプリカ)が作成され、宮中に置かれることとなります。
そのため、現在の皇居に安置されている八咫鏡はレプリカになります。
レプリカは幾度かの火災が発生
宮中に置かれた八咫鏡は、平安時代に3度の火災があり、3度目の火災の時点で、灰になってしまったとされます。
この八咫鏡の改鋳をするかしないか、公卿会議が行われ、時の為政者藤原道長が改鋳を支持しますが、反対を受けて、灰のままにされたと言われます。
ちなみに、実物の八咫鏡も伊勢神宮の内宮で火災があったことから焼失しているのではという説を唱える学者もいます。
源平合戦「壇ノ浦の戦い」にて海に流される
平安時代の末期、平家が権勢をふるいましたが、平清盛の死後、関東で挙兵した源氏の勢いに押され、都落ちをします。
この時、平清盛の娘の徳子(建礼門院)は天皇の皇子を授かっており、安徳天皇として皇位についていましたが、歳が若く平家の都落ちについてこられることになります。
その時、正当な皇位継承者を意味する三種の神器を宮中から持ち出します。
源義経はその後一ノ谷の合戦、屋島の合戦で平家をさらに追い詰め、最後の壇ノ浦の戦いにてとどめを刺すことになりますが、この時平家家中の多くの人と共に、安徳天皇、そして三種の神器も海に飛び込みます。
その後、源氏側の軍の懸命な創作により、八咫鏡と八尺瓊勾玉は発見されますが、草薙剣は失われます。
南北朝時代に南朝側が奪取を試みる
時代は下り、南北朝時代、室町時代には南朝の復興を試みる、後南朝勢力が皇居を襲う、嘉吉の変(禁闕の変)が発生します。
この時三種の神器の内、八咫鏡以外を後南朝勢力に奪われます。
この事件のために、一度宮中から近衛家へと場所を移動することになります。
八咫鏡(ヤタノカガミ)の実物/レプリカにまつわる説
神話や上記の歴史上の事件から、八咫鏡(ヤタノカガミ)の実物やレプリカは失われたであるとか、灰になっているとか、様々な憶測が生まれます。
いずれも八咫鏡本体を確認できず、さらには八咫鏡を見たとされる明治天皇も見た後何も語られなかったために謎のままですが、様々な説をご紹介しましょう。
伊勢神宮(皇大神宮)のご神体としての実物
八咫鏡は現在、通称:伊勢神宮、正式には内宮(皇大神宮)に祀られています。
この実物は誰も見ることが許されません。
伊勢神宮では20年に一度、式年遷宮と言う、神が住まわれる社(宮地)の引っ越しが行われます。
この引っ越しの行事において、八咫鏡を納めた、御桶代だけは遷御(せんぎょ)という本殿から神殿へと移される時に見ることができます。
しかし、この中身を見ることは遷御を行う天皇陛下でさえできません。
八咫の鏡を見たことがあるのは最後が明治天皇
しかし、およそ150年前、江戸から明治に時代が変わったときに、明治天皇が、伊勢神宮にて実物の八咫鏡を見られたと言われます。
その時、明治天皇は「今後天皇でさえも、見てはならない」と言葉を残したとされ、その他八咫鏡の具体的な描写などは一切されなかったようです。
ちなみに、本当かわかりませんが、明治期と昭和に複数人見たと言う人、見たかもしれない人も存在しますが、それは後述します。
歴史の惨事によって実物やレプリカは失われたという説
中身を誰も見たことがないために、八咫鏡は本当に現存するのかどうかすらわからないのが現状で、神話の中で描かれる鏡の形を今に残していない可能性もあります。
八咫鏡にヘブライ語が描かれているという説
この説は、全く確証はありませんが、以下で見る複数の八咫鏡を見たという人の証言から巷で噂される説です。
八咫鏡の裏側を見た人の証言(信憑性はない)
明治期になり、明治天皇が見た後、天皇でさえ見ることは許されないと言われた後、複数の人が八咫鏡の実物を見て、その裏側にヘブライ語が記されていたと証言をしました。
一人は、初代文部大臣を務めた森有礼(もりありのり)です。
彼は、伊勢神宮を参拝し、八咫鏡の裏側に
「エヘイェ・アシェル・エヘイェ(我在りて有る者)」というヘブライ語が記されていると証言したと言います。
ただし、この森氏の証言は森氏をよく思っていなかった伊勢神宮の神官によるでっち上げだとか、様々な説があり、見たことも証言したことも定かではありません。
また、八咫鏡の裏側とヘブライ語の説で有名なのは、海軍将校矢野祐太郎です。
彼は、伊勢神宮の宮司に熱心に働きかけて、八咫鏡を見て、その裏面を手記に写し取ったと言われています。
出典:日本とユダヤのハーモニー
この写真は門外不出だったようですが、このことを出版した人により見ることができるようになっています。
ちなみに、他にも明治期におじいさんが八咫鏡の裏側のことを一人つぶやきながら皇居に来ていたとか複数人が見たと証言をしています。
三笠宮殿下が八咫鏡のヘブライ語の説を調査すると仰ったが
その後、時代は昭和に移り、考古学者であられた三笠宮崇仁親王がユダヤ人の邸宅で、八咫鏡のヘブライ語の説を確認してみようと発言したことを、同席していた東京イブニングニュース支局長がニュースにしました。
しかし、この報道の後、三笠宮殿下が調査結果を発表することはなく、八咫鏡とヘブライ語の説は謎のままです。
八咫鏡(ヤタノカガミ)にはカタカムナ文字という説も
八咫鏡に描かれた文字は、ヘブライ語という説以外にも、神代文字の「カタカムナ文字」「ヒフ文字」等々、様々な説が存在します。
神代文字とは、中国から漢字が輸入される以前(古事記や日本書紀が作られた時代以前)に日本にあったとする独自の文字のことを言います。
神代文字には、カタカムナ文字の他にもヲシテ文字とか様々あるのですが、どの神代文字も、その文字を記した書物は後の時代の創作物であると言われ、そもそもその存在自体が偽物だと言われています。
しかし、古神道等を支持する一部の人によって、これらの神代文字は日本の文化の重要なものだと研究されています。
八咫鏡を含む三種の神器はロマンがいっぱい
八咫鏡について様々な説をご紹介してきましたが、結論誰も見ることができないため、答えは出ていません。
ですが、神様の依り代として、伊勢神宮という神社のご神体となり、古くからの日本の宗教の形を今に伝える重要な宝物です。
神聖であり、様々な歴史があるがゆえに色々な説が生まれる八咫鏡は、私たちの生活の中でも、鏡餅の由来となっているなど、とても結びつきが強いものです。
神社にお参りをする人であるなら、一度は伊勢神宮にお参りをして、八咫鏡が安置されている内宮にご参拝したいものですね。
また他の三種の神器について、三種の神器の情報を知りたい方はこちらをご覧ください。
三種の神器とは|勾玉/鏡/剣に秘められた意味や現在本物のある場所等解説
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とは|三種の神器唯一実物が皇居内にある神壐
草薙の剣(くさなぎのつるぎ)とは|本物が熱田神宮にある理由や歴史を解説
ちなみに、日本には古くから多くの神社がありますが、鏡をご神体にした神社は伊勢神宮と宗像三女神を祀る宗像大社がその始まりだと言います。