真理の意味とは
真理とは「ほんとうのこと」を意味する言葉です。
真理という言葉は、様々なところで利用される言葉で、真理の意味するところはその使われる分野によって変わってきます。
宗教や哲学、数学でも利用される真理という言葉の意味を解説しますが、特に日本人の価値観に大きな影響を与えた仏教での真理の意味を中心に解説し、その他の宗教・学問の真理との対比をしていきます。
真理とは何かを宗教的・哲学的に解説すると聞いて、難しい内容かと思われている方は心配はいりません。
なるべく簡単でかつ興味深いと思ってもらえるように解説していきます。
真理とは辞書の定義
真理という言葉は辞書の中で次のように定義されます。
①ほんとうのこと。まことの道理。「不変のー」②[哲](truth イギリス・Wahrheitドイツ)㋐ 意味論的には、命題の表している事態がその通りに成立していること。例えば「雪が白い」という命題が真であるのは、事実が白いときである。㋑ 真理認識の方式にはおおよそ三つの立場がある。命題(認識する知性)と実在との合致によって真が成立すると考える対応説。当の命題が整合的な信念体系の内部で矛盾せず適合するときに真が成立すると考える整合説。命題や観念が実践的行為において有効・有益であるときに真が成立すると考えるプラグマティズム。ほかに、「Pは真である」は命題Pと同義であるとする真理の余剰説などがある。㋒ 倫理的・宗教的に正しい生き方を真理ということもある。
哲学においての真理という言葉は、かなり難しい表現で解説されていますが、このあたりも後程簡単に解説いたします。
上記の定義で言うと、まず②の㋒にある、「宗教的に正しい生き方を真理」という部分について解説いたします。
真理の意味|仏教での教え
仏教において、真理を意味する言葉は複数あります。
有名なものを上げると、
これらの言葉を初めて見たという人もいるかもしれませんが、その内容は知っているものだと思います。
日本人の多くは無宗教だと言われますが、実際のところ「これは宗教の教えだ」と気づかないほど、私たちの生活、価値観の中に宗教の教えや文化が取り入れられています。
「仏教での真理」というと仰々しい響きですが、仏教の真理だという意識すらもたないほど、私たちの生活に溶け込んでいるのです。
例として、諸行無常と言う真理を簡単に解説します。
諸行無常という真理の意味は「この世のあらゆる存在は、変化していく」です。
諸行無常という真理は桜を見る私たちの態度にも見られます。
桜は一斉に開花してとてもきれいですが、1,2週間もすれば儚く散ってしまいます。
その儚さの中に美しさ、切なさを投影して、古くは和歌、現代では歌が歌われていますね。
この桜を儚いものと見る価値観は無常観とも言われますが、現代の私たちにとって、もはや当たり前とも言うべき感覚は「仏教の真理」の一つなのです。
ちなみに、仏教の真理は真如とも表記されることがあります。
真理とは何かを悟れば
仏教の真理の意味を完全に理解する、つまり悟りを得たならば、私たちは人生の苦しみから解放されると仏教では教えられます。
仏教の教えはかいつまんでいえば、「苦しみばかりの人生で、苦しみから解放され、安らかで楽しい人生を歩む方法」と言えます。
そして、苦しみから解放されるために、私たちがまず何をしなければならないのかと言うと、
この世の苦しみが生まれる原因は私たちがこの世の真理を知らないこと(仏教用語で無明と言います。)
だと気づき、真理を正しく理解し、真理に即して世の中を見て行動をすることだと教えるのです。
真理を悟ったものは仏陀(ブッダ)
仏教で教える真理を悟った時、その人は仏陀(ブッダ)・仏と言われる、この世の苦しみから解放された存在になるのです。
仏教の教える最も重要な2つの真理の意味については、こちらで詳しく解説していますので、ぜひご覧ください。
諸行無常の意味とは|平家物語の”諸行無常の響きあり”の意味も含め簡単に解説
諸法無我とは|意味や簡単にイメージできる例で説明。諸行無常との関係とは
ちなみに、この真理を悟り、この世をありのままに、真理に即してみることができるようになった人「苦しみから解放された安らかで楽しく」生きることができるのですが、その境地を悟りの境地や涅槃の境地、涅槃寂静と言ったりします。
諸行無常と諸法無我、涅槃寂静の三つを三法印と言い、仏教の最も大事な3つの教えを意味する言葉です。
仏教の教えとは何かに興味が出た人はこの3つの意味を知ると仏教って意外と難しいことを言っているわけでもなく、興味深いものだなと感じると思います。
涅槃寂静の意味とは仏教の最終目標|読み方/概念をわかりやすくご紹介
真理の意味を知る者、仏陀(ブッダ)とは
ちなみに、お釈迦様は真理を悟った人、仏陀(ブッダ)なわけですが、お釈迦様が生きた当時、真理を知っていると自称する人はたくさんいました。
当時のインドでは、真理を知っている人間と言う人がそれぞれの持論を戦わせて、どちらが真理を知っているのかと議論を戦わせていたのですが、お釈迦様はそういった人と議論はしなかったと言います。
なぜなら、お釈迦様に言わせると、「真理を知っていると言って議論をする人間は真理の一部しか知らないのだ」と悟ったからです。
この真理を知らないのに真理を知っていると自称する人達がどういう存在かを物語る話が仏教の経典にあります。
真理を知っているとは
ある国の王様が部下に、生まれながらにしての盲人を6人連れてきなさいと言いました。
部下は言われた通り盲人を6人連れてきます。
王様は絶対に生まれながらの盲人か?と念を押して、部下に次の指示を与えました。
その内容は、「象を連れてきて、盲人たちに象とはどんな動物かを、盲人一人一人に象の一部のパーツだけを教えるように」という内容でした。それぞれの盲人に別のパーツについて教えるのです。
部下は言われた通り、盲人に象の鼻はこんな形をしているとか、鼻はどうだとか、耳だけを教える人、足だけを教える人とパーツ毎に教えていきました。
そして王様は、他のパーツについては知らないが、象の一部のパーツだけを知った盲人たちに、象とはどんな動物かを互いに議論するように言います。
すると、盲人たちは、自分の教えてもらった象こそ本当の象だと互いに主張して殴り合いのけんかにまで発展しました。
王様はその様子を見て喜んだそうです。
真理を知っていると言って議論をする人達は、真理の一部だけを知っているからこそ議論するのであり、真理を悟った人は議論はしないのだというお釈迦様の教えを的確に表したエピソードと言えます。
この真理についての議論の話は、お釈迦様の生きた同時代のギリシャの哲学者の話にも通じるものがあります。
哲学での真理の意味
哲学で真理という言葉を一概に表現することは難しいです。
というのも、哲学では「真理とはなにか」についてたくさんの人がたくさんの説を持って解説していて、広辞苑の定義にもありましたが、真理の●●論というのがいくつもあって、それぞれの論で真理は違う意味を持ちます。
そこで哲学において「真理の意味とは何か?」がどのように考えられたのかを一部解説します。
まずは2500年前にお釈迦様がインドでこの世の真理を悟り、仏陀(ブッダ)と呼ばれていたのと同時期のギリシャの哲学者による真理の考察の話です。
真理の意味|ギリシャの哲学者たちの考察
お釈迦様が「苦しみばかりの人生で、苦しみから解放されるには?」の答えを修行しながら悟った訳ですが、ギリシャでも同じく「人として幸せに生きるには?」をひたすらに考えた人がいます。
それが「無知の知」という人間の真理の言葉を残したソクラテスをはじめとする、多くの哲学者です。
紀元前4世紀頃のギリシャでは、「ソフィスト」と言う頭のいい人達が、持論の正しさを競い「弁論術」を磨いてしのぎを削っている時代でした。
ソフィストたちはこの世の真理、人間の真理について、自分こそが真理の全てを知っている正しい人なのだと主張しあっていました。
当時有名な哲学者のプロタゴラスが「万物の尺度は人間である」と言い、それゆえ「人や社会によって正しさや善悪、美醜は異なる」という真理を主張していました。
これはある種、真理をついている言葉と言えます。
しかし、ソクラテスはこの言葉には問題があると思っていました。
それは人によって正しさが違うのであれば、極論みんながみんな自分の好きなように生きればいいとなり、法律も何も効力を持たず社会が成り立たないようになるからです。
ソクラテスはそのため、この世には「人々には見えないが何かしらの正しさという真理が存在する」と考えます。
そしてその正しさとはなんなのか、真理を突き詰めようとしたのですが、わからないものはわからないという結論に至ります。
そして、当時自分たちこそすべてを知っていると議論をしていた人達の中で、ソクラテスの主張は異端とも言える「人間とは(真理を)知らないことを知る存在」と主張するようになります。
この「人間は知らないことを知る」という態度は、ギリシャの文化、ひいては私たち現代人の生活を支える科学にとって、最も大事な考え方です。
自分が知らないことを知っているからこそ、あらゆることの真理を追求しようという態度が生まれ、真理を明らかにしようとするスタートを切れるからです。
私たち普段使う地図アプリに利用されるGPSはアインシュタインが「一般相対性理論」という真理を見つけたことで成り立っているのですが、アインシュタインはそれまでの真理を覆して新しい真理を見つけています。それはアインシュタインに限らず、科学はそれまでの時代の真理が正しいという立場に立っているといつまでも発展しないわけです。
仏教の経典にあった盲人の象の話と同じですが、自分の知っていることが真理であり、全て正しいと思い込んでしまえばそこで発展はしなくなるのです。
ソクラテスの主張は当時の「真理を知っている」と自称する人達に疎まれてしまったことで、はめられて殺されてしまいます。
しかし、ソクラテスの弟子たちによる真理の追究は終わることはなく、プラトン、そして学問の祖と言われるアリストテレスに引き継がれていきます。
ちなみにギリシャからヘレニズム、ローマ時代を経て、キリスト教が布教されるようになる前には、たくさんの真理とは何かに対する説がありました。
その中の一つの懐疑派という哲学の一派は、この世の物事の本質は不確かで、本質とは何かを把握することはできないということが真理であると主張します。
この主張は仏教の諸法無我という真理に通じるものもあり、仏教が宗教というより哲学と言われるのも納得できるところがあります。
ギリシャからローマにかけての真理を追究する流れは一度終焉を迎えます。
ギリシャの精神は1000年以上後のルネサンスと言う時代に復活するのですが、それまでの間ヨーロッパでは「真理とは聖書の中にある。キリスト教の聖書に書いてあるもの以外は真理ではない」という時代に入ってしまいます。
この時代は「精神の暗黒時代」と言われてしまいますが、この時代を経て、哲学における真理はデカルト、カントという有名な人達が追求していき、「真理の対応説」「真理の整合説」「真理の●●説」と言うのがたくさん出て来るようになります。
真理は宗教によって異なる
キリスト教が真理の時代があったと言いましたが、真理というのは宗教によって大きく違います。
ユダヤ教の真理、イスラム教の真理その他たくさんの真理があって、それぞれに主張するところがあるために、盲人の象の話のような争いが起きていくわけです。
ちなみに、仏教では真理についての議論は、世俗的なものであり、悟りを開いたもの、悟りを開こうと修行をするものがするものではないという立場をとっていたことや、仏教側が色んな宗教を取り込む性格を持っていたので、宗教戦争などのようなことは起きませんでした。
キリスト教の真理
キリスト教での真理はイエスキリストが悟ったものが基本であり、聖書に書かれているものでそれ以外は真理ではないとされます。
キリスト教の真理とは何かについてはたくさんありますが、キリスト教の真理を信じる敬虔なクリスチャンの人達にとって、キリスト教の神様との契約・教会の教えつまりキリスト教の真理などに対しての絶対的、盲目的な信仰があります。
それを物語る一つに、私たちを含む万物、さらには宇宙もすべて神が想像したという真理がキリスト教にはあります。
その真理を多くの人が信仰していた1800年代、ダーウィンが進化論を発表し、私たち生物はは神によって創造されたのではなく、進化して今にいたると主張したことに対してカトリック側は異常ともいえる反対をしていたことは有名です。
また、今日でも宗教によって真理がいかに違うのかを物語る話に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に統一して見られる真理の天国と地獄があって、良いことをした人は天国に罪を犯したら地獄に行くというものがあります。
この真理を信じるイスラム教原理主義者はその良いことの中に自爆テロという行為を含めてしまっていて、イスラム教の真理は私たちでは理解しがたい行為を助長することになっています。
親しいカトリックを信仰する国々、イスラームの国々の人の話を聞いていると、現代でもとても宗教の教えに従順な人もいれば、かなり自由に考える人もいますが、日本人の無常観のように、生活の中の価値観に各宗教で教えられる真理が垣間見えるタイミングがあります。
真理という言葉について
真理と言う言葉事態についても簡単にご紹介して最後締めくくります。
哲学や宗教的には、それぞれの主張する真理があって、この世の姿については一定した意見が無いわけですが、物理学、数学の世界では、全世界で真理は一つとなっています。
しかし、物理学の真理もまたアインシュタインの例のように変わる可能性を含んでいます。
それゆえ、真理という言葉は、時代や場所が変わってもどこでも成り立つ”ほんとうのこと”なのですが、それは前提が正しいとされている時のみなのです。
例えば、三角形の内閣の和が180度は絶対に正しい真理とされていますが、実は180度にならない状況もこの世にはあります。
それは三角形が局面上にある場合などです。
つまり、真理というのに固執するのはお釈迦様の生きた時代も、ソクラテスの時代も現代においても良くない事なのかもしれません。
真理は英語で
真理は英語でtruthと表現されたり、verityという言葉で表現されます。
よく真理という言葉の使い方で、「不変の真理」という言葉がありますが、英語では「the eternal verities」と表現されます。
真理の類語・対義語
真理と言う言葉の類義語には、
仏教では真如という言葉ありましたが、論理学などでは真も同様の意味で利用されます。
また、真実という言葉も真理と同意で使われることもある言葉です。
真理の対義語は、虚偽という言葉などです。
真理はこの世のありのままの姿を現す言葉であり、古くから多くの人がその研究をしていながらも、まだこの世の真理を完全に解き明かすことができていません。
例えば、デカルトが残した「我思う、故に我あり」という言葉。
これは私たちは実在しているという真理の言葉でもありますが、実際は実在なのかどうなのか、哲学的な問題だけでなく、物理学的なトピックでもあるのです。
私たち人間は実在しているのか、それともシュミレーションの世界にある投影された存在であるのか(実在はしない)のかすら今の科学では断言できないのです。
私たちの意識は空だという般若心経の教えもありますが、実際私たちの意識とはそもそも何なのかははっきりとしていないとされるのです。
この話についてはこちらの動画で現在の私たちの実在に対する仮説をまとめ
て解説してくれていますので、興味のある人はご覧ください。
また、般若心経という仏教の教えについてはこちらで詳しく解説しています
般若心経は意外と科学的な考え方に落とし込んでも理解できるとても興味深いもので、簡単に解説していますのでぜひご覧ください。
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