廃仏毀釈とは|意味やなぜ起きたのか背景を解説
廃仏毀釈とは仏教に関する仏閣、仏像、経典などを捨て去り、仏教側に対して大打撃を与える種々の行動を言います。
廃仏毀釈の読み方は「はいぶつきしゃく」
廃仏毀釈は「はいぶつきしゃく」と読みます。
それでは廃仏毀釈について詳しく解説していきます。
廃仏毀釈の意味
廃仏毀釈の意味をそのままで解釈すると、以下のようになります。
“仏”を”廃す”→仏教に関わるもの事を破壊、撤廃する
“釈”尊の教えを”毀(こわ)”す→お釈迦様の教えを棄却する
廃仏毀釈はインドや中国など日本以外の世界の様々な地域で起きたことがあります。
しかし、多くの場合廃仏毀釈の意味は、日本においての明治時代の神仏分離令の発布後に全国で起きたお寺に押し入り貴重な文化財である仏像や経典、伽藍という寺院の建物自体を破壊した「廃仏毀釈運動」のことを指します。
全国に広がった廃仏毀釈運動
廃仏毀釈の波は、明治初頭全国の寺院に押し寄せます。
それまでの日本では神仏習合と言い、神社の中にも寺院があり、寺院の中にも日本の神様が祀られるという、神道も仏教も複雑に混ざり合って一緒のようになっていました。
「神様、仏様」と聞いたことがあると思いますが、日本の神様とインド発祥の仏様はそもそも全く別もので、このように一緒くたにされているのはとても特別なことです。
しかし、今はその面影はほんの一部の神社や寺院で見られるだけで、神社は神道の、寺院は仏教の施設となっています。
この原因となる廃仏毀釈運動は明治になった直後のたった5年ほどの短期間に行われたものです。
1000年以上もの歴史を持ち、ありがたいと言い拝んできた仏像などの日本の貴重な文化財がこれほどまでに破壊、紛失した廃仏毀釈とはなぜ起きたのかについて解説いたします。
神仏習合の歴史等についてはこちらで解説しています。
神仏習合とは(=神仏混淆)|歴史・現在も影響の残る神社寺院の例をご紹介
なぜ廃仏毀釈が起きたのか|原因は複数
廃仏毀釈が起きた原因には、様々な考察がなされています。
廃仏毀釈をした政府、市民、僧侶や神道の神官それぞれに廃仏毀釈運動を容認し参加した理由があります。
それらについて理解してもらうために、まずは廃仏毀釈が起きる前の日本について解説します。
廃仏毀釈が起きた時代背景(明治以前)
廃仏毀釈は明治の神仏分離令後になって行われるものですが、廃仏毀釈を行う土壌が生まれたのは江戸時代と言えます。
江戸時代の廃仏毀釈につながった「思想」と「仏教側への不満」という二点があります。
国学の興隆と神仏分離の思想が広がる
先ほど、神仏習合という神道と仏教が一緒になっていたという時代があったと述べましたが、江戸時代に日本本来の文化や精神を明らかにしようとする国学が盛んになります。
この国学のテーマの一つには、仏教が伝来して大きな影響を受ける前の本来の神道(復古神道)を明らかにしようとするものがありました。
国学を大成する本居宣長の弟子の平田篤胤(ひらたあつたね)という人は、この「日本に古来からある神道、本来の姿の神道」というものを明らかにしようと研究の第一人者として有名なのですが、彼の弟子たちである平田派という人達は後の国家神道の樹立に大きな影響をもたらします。
また、国学の学者以外にも、水戸学という尊王攘夷思想にもつながる学問などにおいても、日本古来の神道や思想(仏教の影響を受ける前)についての研究を重ね、明治維新の功労者である志士に多くの影響を与えます。
江戸時代のころは水戸学に代表される水戸藩のように、地域によって神仏分離を進めて行く藩や神社も存在していました。
寺請制度等による市民・神官の仏教側への不満
寺請制度(てらうけせいど)とは、檀家さんとお寺さんの関係を江戸幕府が全国民に持たせた制度のことを言います。
寺請制度によって、お寺と市民はそれまでよりも深くつながるようになります。
そして、市民は葬式など様々な場面でのお寺へのお金の工面に苦労するなど、大変な思いをすることもあった一方、お寺は財政基盤となる檀家さんがいることで大変に潤ったそうで、市民の中にはそのことに不満を持つ人も多くいたそうです。
また、江戸時代は寺院と神社はほとんど同じように扱われていたのですが、神社側はお寺のような財政基盤を持たず、お寺側の勢力に押されていたそうです。
中には雑役を神官がさせられたということもあったそうで、市民や神道側の人間は仏教側への不満を募らせていた節があります。
こんな苦しい思いをする人達がいる一方で、仏教側の一部の僧侶は財政的に潤い仏法への帰依もせず、怠惰に流れ、乱れていたと言われます。
神仏分離令が廃仏毀釈のきっかけに爆発する
上記のような状態だったところに、明治維新が起きて明治政府による新しい政治が始まります。
明治政府は西欧列強に大きく遅れた日本のあらゆる部分を改善し、早く追いつくためにも中央集権的で近代的な政府を作るための様々な政策を行います。
その一つが神道と仏教を分ける、神仏分離令だったのです。
明治政府が神道を優遇した理由
明治政府は神道を国教とし、祭政一致という方針を取ります。
この祭政一致の考えには、先ほど述べた国学や水戸学の影響があると言われますが、大まかにその目的は天皇を中心とする国造りをして官民一丸となり西洋諸国に追いつくことと言えます。
またこれは神道を中心とすることによって他の宗教を排除する目的もありました。
さらに神道を中心とすることは、それまで寺請制度によって市民を実質的に管理していた寺院から力をそぐこと、徳川時代の否定をするためでもあったとされます。
これらの目的をもって、明治政府は、神仏分離令やその他大教宣布の詔などのお布令にて仏教と神道を切り離し、仏教側の力をそごうとします。
これらのお布令には、
- 神社内にある仏教に関するものを取り除くこと(仏像や仏閣、経典を取り除き、仏教由来の神様は名称を変える等)
- 仏教寺院の持つ領地を召し上げること
- 神社に属する僧侶は神官になるか還俗(一般人に戻ること)をする
などなど、あくまで仏教側の力をそぎ、神道に力を集めようとします。
しかし、明治政府の目論見とは別に全国各地で、仏教寺院を襲い、そこにある仏教にまつわる様々なものを破壊する廃仏毀釈運動が行われるようになります。
この廃仏毀釈運動は明治政府が命令したものでもないのに、神仏分離令をきっかけに全国に広がっていきました。
廃仏毀釈運動は一人の首謀者がいて、徹底的に破壊するように先導したのではなく、様々な人がそれぞれの考えをもって運動を仕掛けたのです。
誰が廃仏毀釈を先導したというものではない
様々な人と言うのは先ほどご紹介した、仏教側への不満や、神仏分離の思想を持った人たちによるものでした。
市民が廃仏毀釈運動をした理由には、それまでの困窮した生活の一員であった仏教側への復讐だったとされます。
神官が廃仏毀釈運動をした理由には、仏教側への復讐や、行き過ぎた国家神道の思想を持った人達の暴挙があったとされます。
また、藩によっては藩が神仏分離の思想を強く持っていたことによって藩主導で寺院を解体したというものもあります。
廃仏毀釈は日本史上でも最悪の蛮行と言われ、短期間に文化財が大量に失われた最低なものでした。
廃仏毀釈の結果
神仏分離令から廃仏毀釈運動の結果は悲惨なものでした。
- 全国の寺院の半数が消える
- 日本の奈良時代からの重要な文化財が破壊されたり、海外に流出したりする
- 国家神道を中心とした、教化組織の神祇省を設立するも数年で解体、その後の大教院や教部省では仏教側の力を借りる
結局、神仏分離は進んだものの明治政府が意図した神道中心の国造りは断念され、1000年以上もの歴史を持つ重要な文化財が失われたのでした。
廃仏毀釈の被害については、以下で具体的にご紹介いたします。
廃仏毀釈による被害|国宝級の文化財が紛失
日本全国に広がった廃仏毀釈運動の被害を受けた有名な寺院の話をご紹介します。
最もひどかった廃仏毀釈があった興福寺(奈良県)
奈良県の興福寺は藤原家の菩提寺であり、春日大社と深く関りのある日本でも最古級の寺院の一つです。
今では国宝の十二神将像もあり多くの観光客が集まる古刹ですが、廃仏毀釈の被害によって一時は、誰一人として寺内におらず、建物や奈良時代の作などの仏像が破壊・盗難され、荒れ放題となっていました。
有名な話は興福寺の五重塔が25円やら250円で売られたという話もありますが、実際のところは謎のままとされます。
2014年にアメリカであったオークションに興福寺の国宝指定されている「乾漆十大弟子立像」が出品されニュースにもなっていましたが、奈良時代の傑作の一つとされる仏像は今もすべてが興福寺に集まっているわけではありません。
廃仏毀釈の後興福寺領は奈良公園に
また、興福寺は今は観光客も多く集まる寺院となりましたが、現在の寺領は昔のものからははるかに狭くなっています。
これは寺領を召し上げる「上知令」によって取り上げられたものを公のために利用したものの例です。
よく古地図を見ると古くは寺領だったものが、市街地や公園になっていたりするのは明治時代の爪痕です。
藩で廃仏毀釈を進めた鹿児島県等
廃仏毀釈が全国でも徹底的に行われたのが鹿児島です。
鹿児島では薩摩藩が藩内にあった約1600と言われるすべての寺院の領地を召し上げ、寺院を完全になくしたのです。
寺を失った僧侶の多くは薩摩軍に入れられたそうで、近代化が早く維新の中心となった薩摩藩では、神仏分離の動きが徹底していたと言えます。
鹿児島以外にも、藩主導で徹底的な廃仏毀釈を行った藩はあります。
神仏分離令を創案した亀井が藩主を務める津和野藩(現在島根県)や、岐阜県(苗木藩)などなど藩による徹底的な廃仏毀釈によって藩内の寺院がことごとく姿を消します。
寺院が多くある京都での廃仏毀釈
総本山となる大寺院も多い京都でも廃仏毀釈が行われます。
その中でも有名なところで言うと、八坂神社とその境内の奥に広がる円山公園の話です。
廃仏毀釈は仏教寺院の破壊だけでなく、神社の中で仏教色の強い神様を祀っているところに対しても容赦なく影響を及ぼしました。
八坂神社は仏教の経典の中でも出てくる牛頭天王という神様を祀る神社でした。
この牛頭天王と言う神様のご祭神の名称を変更することになり、現在は日本神話にも出てくる、スサノオノミコト(素戔嗚尊)という名称で現在は祀られています。
この八坂神社の奥に現在坂本竜馬や中岡慎太郎の像もある円山公園がありますが、この円山公園は元々はその奥にある長楽寺の寺領でした。
奈良公園同様、寺領を召し上げられたのち、市民の公園として開放されたのでした。
また、日本最大の観光スポットとなった伏見稲荷大社では、神仏習合の時代は、境内に寺院があって、そこには仏教のお稲荷様と知られるダキニ天(荼枳尼天)を祀っていました。
しかし、その寺院は取り払われ、神道のウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)をはじめとするお稲荷様を祀るようになりました。
徹底的に破壊されなくなった大寺院
神仏習合の時代、伏見稲荷大社のように神社には寺院があったり、近くには神宮寺という神様のための寺院のようなものがあったのですが、それらの多くは失われました。
神宮寺は伊勢神宮にもありましたし、多くの有名な神社に立派な神宮寺がありました。
そのほとんどが今は失われてしまいますが、その中でも有名な寺院に石上神宮の神宮寺だった永久寺があります。
石上神宮は日本最古級の神社の一つで、その神宮寺であった永久寺はとても立派な仏閣を持ち、法隆寺に次ぐ寺格を持っていたとされる大臣で下。
この永久寺は廃仏毀釈が行われるや否や、僧侶はすべて還俗し、寺院の建物はすべて破壊され薪となり、仏像や経典などは破格の値段で売られていきついには完全に失われてしまったのでした。
鳥羽天皇の勅願によって創建された寺院でしたが、廃仏毀釈により今では跡地が残るだけとなります。
このような例は数えきれないほど起きたのですが、中には、宮島の厳島神社の神宮寺出会った大聖院などが残っています。
廃仏毀釈の時代に奮闘した人々
廃仏毀釈が吹き荒れる中、日本仏教界や、仏教美術などを守るために奮闘した方々をご紹介します。
島地黙雷(浄土真宗の僧侶)
島地黙雷(しまじもくらい)は浄土真宗本願寺派の僧侶で、神仏分離・廃仏毀釈が吹き荒れ立場を貶められた日本仏教界の立て直しに功績を残します。
明治政府の国家神道を進めようとする目論見は、伝導の経験が少ない神祇官による布教がうまくいかないことでとん挫します。
そんな中、岩倉使節団に従事した経験もある島地黙雷が仏教界を代表して、政府の宗教政策に申し立て、その立て直しをします。
海外の信教の自由などの概念を持ち込み、祭政一致なども批判し、廃仏毀釈からの仏教界の立て直しに限らず、日本の宗教のあり方をただしたともいえる人物です。
アーネスト・フェノロサ
フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治学等を学んだ後日本にやってきた人で、日本にやってきて後、日本美術を研究・その文化の保護に尽力した方です。
廃仏毀釈があった明治初頭は、日本古来の文化を軽視する風潮があり、仏教寺院を破壊するような廃仏毀釈運動以外にも、浮世絵や屏風、様々な日本に古来からある文化財が大打撃を受けます。
廃仏毀釈によって廃れ掛けた日本の仏教美術、ひいては日本美術のすばらしさを伝え、日本の美術品の保護もしました。
中には、フェノロサの手によって日本の美術品が国外に出たことで批判もありますが、彼の存在があったからこそ、それらの美術品に価値があるという考え方が日本に広まったと言えます。
後にフェノロサは日本の美術界の興隆の礎として東京藝術大学の善神となる大学を岡倉天心と共に設立します。
海外でも見られる廃仏毀釈のような蛮行
廃仏毀釈は日本以外でもあったのですが、そもそも仏教への弾圧以外にも世界には特定の宗教を否定し、その宗教に関わるものを破壊するという姿が見られます。
廃仏毀釈を英語で表現すると
廃仏毀釈を直接的に表現する英単語はありません。
明治期の研究論文等では、廃仏毀釈について、
- The abolition of Buddhism (during the Meiji Restoration)
- The Persecution of Buddhism
などと表現されています。
もう少し一般的な表現としてvandarismという表現がありますが、これは仏教を標的とした廃仏毀釈に限らず、様々な他人の所有物、良いと考えられているものを破壊する行為です。
このような文化の破壊行為は世界でも見られます。
韓国・朝鮮半島の廃仏毀釈
廃仏毀釈と一般的には言いませんが、日本に仏教を伝えた朝鮮半島では李氏朝鮮時代に仏教を徹底的に弾圧しました。
李氏朝鮮時代は儒教を国教とし重要視したことから、それまで政治でも重要な役割を果たした仏教は王朝から切り離され、一部の寺院を除くその他の寺院は明治期の廃仏毀釈運動のように寺院の領地を没収されたりします。
中国の廃仏毀釈(三武一宗の法難や文化大革命)
中国では、幾度かにわたって廃仏毀釈の動きがありました。
それが「三武一宗の法難」と呼ばれる仏教への迫害で、複数の王朝の皇帝によって仏像が破壊されたり、僧侶への還俗や虐殺などの動きがありました。
また中国で30年ほど前にあった文化大革命においては、旧文化の破壊行動が見られ、その一つが仏教寺院の破壊などでした。
仏教以外に目を向けると、直近ではISIS(イスラム国)のパルミラ遺跡やタリバンのバーミヤン仏教遺跡の破壊など文化財の破壊行為はたくさん見られます。
新しい秩序を形成する中の負の側面としか言いようのないこれらの行為の歴史を知り、今後起きないことを望む限りです。