愛別離苦とは|意味やお釈迦様の説く乗り越える方法
愛別離苦とは人間なら誰しも避けることのできない人生の苦しみの一つです。
愛する人、ペット、その他様々な愛着を持った物を失う、離別する苦しみは、その愛する気持ちが大きければ大きいほど辛いものです。
お釈迦様は愛別離苦という苦しみはどう乗り越えると説いたのか解説いたします。
また、仏教で愛別離苦と呼ばれる、愛するものを失う悲しみは万国共通です。
世界ではどのように捉えているのかも一部ご紹介いたします。
愛別離苦の読み方「あいべつりく」
愛別離苦はそのまま「あいべつりく」と読みます。
それでは愛別離苦の意味について解説いたします。
愛別離苦の意味
愛別離苦の意味は広辞苑などの辞書で一般的に、次のように定義されます。
「親、兄弟、妻子など愛するものと生別・死別する苦しみ」
しかし、もっと広く取って、ペットや愛する故郷、様々なものとの別れに苦しむ気持ちを愛別離苦と捉えます。
愛別離苦は経験したことがない人も、とても理解しやすい苦しみだと思います。
お釈迦様はこの愛別離苦という絶対に避けて通ることができない苦しみをどのように乗り越えるといいと考えているのかについて解説いたします。
お釈迦様が説く愛別離苦を乗り越える方法
お釈迦様が教えてくださった愛別離苦を乗り越える方法は、愛別離苦に限らず、人生のあらゆる苦しみ(四苦八苦)を乗り越える方法に通じます。
仏教の教えと言うと「愛別離苦」や色即是空、諸法無我、五蘊盛苦のような漢字ばっかりの一見堅くて理解するのが難しいものばっかりのように感じると思います。
しかし、本当は仏教の教えはとてもシンプルなものです。
「苦しみの多いこの世界で、苦しまないで生きるためにはどうすればいいのか」
このことを様々な言葉で解説してくださっているのです。
それでは、愛別離苦という愛するものとの別れをどう乗り越えると良いのか、お釈迦様の言葉をご紹介いたします。
なぜ愛別離苦が辛いのか
まずお釈迦様が説いた、仏教の教えの苦しみから解き放たれるために大事なことは「苦しみの原因を理解すること」です。
愛別離苦が人生最大の苦しみの一つとは理解できると思います。
でもその苦しみの原因は一体何なのかはわかりますでしょうか?
愛別離苦の原因は「愛」です。
愛から苦しみが生まれるというのがお釈迦様の教えです。
何かを愛するということは、愛する対象を「大事にしたい・失いたくない」という感情を生み出します。
これを「執着」と言います。
愛というのは何かに執着する感情の一つです。
執着をすると、人はこの世の中の絶対の決まり事である真理に逆らって生きようとします。
でもその真理を変えることは絶対にできないのです。
絶対に変えられない真理があるのに、愛するという執着が生まれることが愛別離苦の苦しみの原因なのです。
人は絶対に死にます。これはどう頑張っても変えることはできない真理です。
でも愛する人ととても幸せな時間を過ごしている時、この真理のことなど忘れてしまい、「一生この愛する人と幸せな時間を過ごしたい」と感じると思います。
愛する感情が、この世の真理から目を逸らせてしまうのです。
そしてこの世の真理から目を逸らしていて、離別の時が来てしまった時、逆らえない絶対の真理を前にうろたえ、苦しみ辛い気持ちに悩まされるのです。
そんなこと頭でわかっても、「愛する人と一緒にいるというのは幸せなものであり愛する人とは一緒に居たいものと感じるのは当たり前です。
この愛別離苦の乗り越える方法について、お釈迦様のお話でどのように語られているか見てみましょう。
愛別離苦の法話1
法句譬喩経(ほっくひゆきょう)というお経にある、お釈迦様のお弟子さんのキサーゴータミーという女性の話です。
キサーゴータミーは、お釈迦様と出会う前、愛する夫に出会い、愛しい子供を授かります。
しかし、出産を迎える前に夫とは死別し、生まれた子供も幼くして亡くなってしまいます。
キサーゴータミーは悲しみのどん底に居ました。
「どうして私だけがこんな目に会わないいけないのか」と
キサーゴータミーは自分の置かれた現実を受け入れることができませんでした。
キサーゴータミーは愛する子供の亡骸を抱きながら町中を歩き、「この子を生き返らせる薬をください」と言い続けたそうです。
蘇らせる薬は見つかるはずもなく、さまよい続けるのですが、ある家で「蘇らせる薬はないけれどもお釈迦様ならきっと良い薬を与えてくださるでしょう」と言われました。
キサーゴータミーは早速お釈迦様を訪ね「この子を生き返らせる薬をください」と懇願します。
お釈迦様は「わかりました。ではその薬に必要な芥子(ケシ)の実をもらってきてください。
ただし、その芥子の実は、今までに死者を出したことがない家からもらってこないといけません」
このように伝えました。
キサーゴータミーは来る日も来る日もお釈迦様の言葉通りの芥子の実を探します。
当時のインドでは芥子の実は一般的に使われる香辛料なのでどの家にもあったそうですが、「死者を出したことがない家」は見つけることができません。
祖父が死んだ家、夫が死んだ家、子供が死んだ家、出産と共に妻を失った家、両親を失った家
そしてキサーゴータミーは「誰しも愛した人との別れ葉経験している。死はだれにでもやってくるんだ。自分だけが特別に不幸を背負っているのではないのか」と自ら気づきました。
そしてキサーゴータミーは子供の亡骸を弔ってお釈迦様の元でお弟子さんとして修業をするようになったそうです。
愛別離苦の法話2
続いてお釈迦様が愛別離苦についてお話した時の物語を簡単にご紹介いたします。(参考:中阿含経「愛生経」)
お釈迦様が仏教の教えを各地で話して各地を転々としていてシラーヴァスティという町にいた時のお話です。
この町に住んでいたある夫婦に子供ができて、夫婦は子供を授かったことを大変喜んでいました。
しかし、この子供はある日突然に亡くなります。
大変な喜びの最中だった夫婦は深い悲しみのどん底に落ちました。
特に父親は深く悲しみ、食事もままならず、見た目に気を使うこともなくなり、みすぼらしくなっていったそうです。
来る日も来る日も愛する我が子を失った苦しみに襲われました。
ある日、苦しみに打ちひしがれて、さまよい歩いていた父親はお釈迦様がいるところにたまたま行き着いきます。
するとお釈迦様は父親に「あなたはどうしてそんなに心ここにあらずという姿なのですか?」と尋ねます。
父親は「私は愛する子供を突然に失い、毎日が苦しく何も手につかないのです」と答えました。
この話を聞いたお釈迦様は父親に
「そうですか。愛する人を失うことは苦しいことですね。愛するがゆえに、悲しみや苦しみが生まれてしまうのです」
と声をかけました。
しかし、この言葉を聞いた父親は「愛から苦しみが生まれたというのか。愛は喜びと楽しみ、幸せを生むものです!私は愛する子供を得てたくさんの幸せを得ました。あなたの言うことは間違っている」と反論します。
お釈迦様は愛が苦しみを生むということを理解してもらおうと話をしますが、父親は理解できず怒って帰ってしまったそうです。
「愛が苦しみを生む」
このお釈迦様の言葉を理解できなかった父親は、お釈迦様と別れて近くにあった賭博をしている人達の群れを見て、その人達にお釈迦様の言葉をどう思うか聞いて見ることにしました。
賭博をする人達なら、人の心の動きを見抜くことに長けていると考えたからです。
そして父親が「愛が苦しみを生む」ということを、その場で強いと言われたあるばくち打ちに聞いてみると、「愛が苦しみを生むわけない。愛は喜びや幸せを生むものだ」と答えました。
父親はこの答えを聞いて家に帰っていきました。
しかし、父親が去った後「愛が苦しみを生む」という話が賭博場で話題となって、その話題は町に広がり、王様の耳にも入ります。
お釈迦様がいらっしゃった当時あった、インドの王国「コーサラ国」の王のパセーナディは「愛が苦しみを生む」という話を聞いて、部下にその真意をお釈迦様に尋ねるように言いました。
お釈迦様の元に着いた部下は「愛が苦しみを生む」とは一体どういうことか?と尋ねます。
するとお釈迦様はその部下に対して「では次のお話を聞いてあなたはどう思いますか?」と2つの物語をしました。
「ある若者がいました。この若者は愛してやまない恋人がいました。二人は互いに愛し合う仲だったのですが、恋人の両親は若者との交際を認めず、無理やりに他の結婚相手を見つけて若者と恋人を離れさせようとしました。
この愛している恋人と別れさせられた若者はどう感じたでしょうか?
ある夫婦がいました。この夫婦は深く愛し合っているとても仲の良い夫婦でした。しかしある時突然に愛する者は亡くなってしまいました。
すると、深く愛し合っていた二人は突然の別れをどう感じたでしょうか。
この話は、夫、妻、子供、両親どんな存在でも愛しているのであれば同じです」
この話を聞いた部下は自分の愛する人を思い、この話に自分を当てはめると愛が苦しみを生むことを理解しました。
そして、王宮に帰って、王様にこの話をしました。
王様は「愛が苦しみを生む」という話を聞いても、いまいち理解に苦しんだ後、横にいた王妃に聞いて見ました。
「愛が苦しみを生むのだそうだ」
王妃は王様に対して次のように答えます。
「王様。あなたは私との間の子供は愛していますか?そしてこの国の民は愛していますか?」
王様は答えます「愛しているとも」
王妃は続いて「では私のことは愛していますか?」と聞きました。
「もちろん」と答える王様に王妃は「では私と別れることになったら悲しいですか?」と
王様は「悲しいに決まっている。そしてそなたとの別れは大いなる苦しみだ」と
王妃は「でも私たちは、いつかは死にお別れをすることになります。愛する者との別れはどんなものでも苦しいことではないですか。」
この話をした王様は「愛が苦しみを生む」ことを理解し、愛する者との出会い、そしてその者を愛する気持ちが強ければ強いほど別れが苦しいものであると理解し、その後お釈迦様に教えを乞うようになったそうです。
愛別離苦を乗り越える方法
お釈迦様が説いた愛別離苦などの苦しみを乗り越える方法はとても簡単にまとめると
- 愛・執着が苦しみを生む
- 愛・執着が生まれる原因はこの世の真理を知らない・無視していることであると理解する
- この世の真理である諸行無常や諸法無我を知って、執着する心が生まれないようにする
- この世の真理を理解し、正しい行いを心がけれる
ということです。
しかし、ここまでの話を読んで、皆さんはどう思いましたでしょうか。
頭ではわかっても、愛する人との別れで苦しんでいる人はこの話を聞いてもすぐにその苦しみを乗り越えられる訳ではないかもしれません。
特に、お子さんをなくした、若くして夫/妻を失った場合等、なぜ私のところだけと感じてしまうような理不尽とも言うべき愛別離苦ならそうでしょう。
愛が愛別離苦の原因であり、いつかはどんな人とも絶対に別れることは真理、と言う最もらしいお釈迦様の言葉を頭で理解しても、納得することができないかもしれません。
けれども、変えることはできない、戻ることもできないという現実を受け止めどう考え、行動していくのかが大事なのではないでしょうか。
「言うわ易く行うは難し」ではありますが、正しいものを見る目を養い正しい行動を実践することをお釈迦様は重要視していると理解すると、お釈迦様の愛別離苦の乗り越え方についても理解できるのではないでしょうか。
ちなみに、お釈迦様が説いたこの世の真理、そしてこの世の世界観の諸行無常と諸法無我を理解すると、さらにお釈迦様の言葉の真意を感じることができると思います。
諸行無常の意味とは|平家物語の”諸行無常の響きあり”の意味も含め簡単に解説
「諸法無我」と漢字が並んで難しそうですが、実はとても分かりやすいこの世の世界観についてぜひご覧ください。
諸法無我とは|意味や簡単にイメージできる例で説明。諸行無常との関係とは
そもそも、真理という言葉はどんな意味を持つ言葉なのかについてはこちらで解説していますのでぜひご覧ください。
真理の意味とは|仏教の真理と他宗教の真理,哲学の真理の意味は違う
ちなみにお釈迦様の言葉の解釈は、色んな寺院で色々とあって様々な法話を聞くことができます。
苦しみに対する答えはそういった仏教寺院で聞く法話以外にもキリスト教による教えもあれば、心理学的アプローチ、脳科学的アプローチなどたくさんの方法があります。
もし苦しんでいる方がいるのでしたら、キサーゴータミーがお釈迦様に教えてもらい苦しみの連鎖から抜け出したように、自分に合う様々なアプローチを調べてみてはいかがでしょうか。
愛別離苦は四苦八苦の一つ
四苦八苦という四字熟語は今では「四苦八苦してゴールにたどり着く」という使い方に見られるように、「非常な苦しみ」を意味する四字熟語として普段の生活でも使われますが、元々は仏教の言葉でした。
そして愛別離苦はこの四苦八苦の中の一つに数えられます。
この四苦八苦は私たちの人生で避けられない苦しみを意味します。
お釈迦様はこの世は苦しみばかりの世界、一切皆苦(いっさいかいく)と仰りました。
そして、その苦しみばかりの一切皆苦の世界で、苦しみから解き放たれる方法を伝えてくださりました。
先ほどの愛別離苦の苦しみを乗り越える方法と同じです。
- この世は自分の思い通りに行かない、苦しみばかりの世界(一切皆苦)
- そして苦しみの原因は思い通りにしたいという煩悩である。
- 煩悩が生まれる原因は諸行無常と諸法無我という真理を無視していること。
- この世界の真理を理解し、正しい行動を行えば苦しみから逃れ安らかな心で生きることができる。つまり涅槃の境地に達する涅槃寂静
これが仏教の教えなのです。
お釈迦様が説くこの世の苦しみの四苦八苦を具体的に見ていきましょう。
愛別離苦以外の四苦八苦
愛別離苦以外の四苦八苦に含まれる苦しみもこの世で誰しもが避けることができない苦しみです。
この四苦八苦は私たちの肉体的なことに加え、人生を送っていく中で直面する苦しみなどを網羅したものと言えます。
四苦|生苦・老苦・病苦・死苦
生苦 | 生きること・苦しみの多いこの世界に生まれついたことの苦しみ |
老苦 | 老いていくことの苦しみ |
病苦 | 病をする苦しみ |
死苦 | 人は必ず死ななければならないという苦しみ |
四苦とは私たちの肉体に関わる根本的な苦しみです。
ここに加えて4つの苦しみがあります。
まとめて生老病死と言い、四苦とも言われます。
生老病死とは|お釈迦様が説く意味・仏教の四苦八苦の教えについて
怨憎会苦|愛別離苦の対義語と言われる
八苦の一つは怨憎会苦(おんぞうえく)と言います。
怨憎会苦の意味は「恨みや憎しみを持つような人と出会わなければならない苦しみ」です。
どんなにこちらが理解しようと努力しても、理解できないようなひどい人はこの世にはたくさんいますし、そうではなく立場や状況が重なった結果、腹が立つことや憎い相手も出てきます。
相当なことがない限り人は一人では生きていくことはできないので、人と関りながら生きていくのですが、そうすると嫌な人とも出会わなければならないということです。
愛する人との別れと、憎い人との出会いはいずれも避けられない人生の苦しみです。
求不得苦(ぐふとくく)
求不得苦とは欲しいと思ったものが手に入らないことの苦しみを意味します。
お金、地位、名誉、恋人等々、手に入れたいと強く思って努力をしても、実を結ばなければそれは苦しみになります。
またお金や地位などは手に入れたとしても、人は慣れる生き物で同じ環境に居続けることが続くと新たな刺激を求めて次を求めたくなります。
他の人が羨むような生活を手に入れても、その先も続く際限のない欲望に悩むのです。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
五蘊盛苦は五蘊(心と体)によって私たちの苦しみが生まれるということを意味します。
五蘊盛苦や五蘊という概念は少しの簡単な言葉で解説しきれませんので、こちらで解説しているのをぜひご覧ください。
五蘊とは|意味や五蘊盛苦/五蘊皆空等の仏教用語をわかりやすく解説
四苦八苦についてはこちらでも詳しく解説しています。
四苦八苦の意味とは|語源となる仏教の教えや四苦八苦するの使い方など解説
愛別離苦の苦しみは他の宗教や様々な人が語る
愛しい人との別れの苦しみは万国共通のものです。お釈迦様に限らず、多くの宗教家や哲学者が様々な考えを持っています。
愛が苦しみを生む原因でも愛は生きる力になる
昨今の脳科学の研究が進んだことにより、信仰・愛・怒りなどなど感情が脳の中でどのような作用で生まれ、どのように体に影響を与えるかということがわかってきています。
最近ではメディアにもよく出演されるのを見る脳科学者の中野信子さんは祈りが科学的にどのような効果を体に与えるのかについて様々な発信をしてくださっていますが、その中で愛が脳に与える影響をこのように仰っています。
「母が子に母乳を与えるときや、父が子に愛情を持って接するなど、人が愛情を感じるタイミングでは”オキシトシン”という脳内快楽物質が分泌されます。」
このオキシトシンが分泌されると人は幸福感を感じます。
それと同時に、免疫系統が活発に活動するようになります。
愛情が芽生えることは、人の活動に多大なプラスの影響を与えるのです。
キリスト教の愛別離苦の考え
キリスト教と言っても、一概にその教えが一つという分けではありませんが、今では当たり前となったカウンセリングというものを大きなビジネスとして注目させる先駆けとなり、自己啓発の元祖とも言われるノーマンヴィンセントピール牧師の考えをご紹介いたします。
まずキリスト教的考え方では魂は不滅と考えます。
その上で、彼の言葉を簡単にまとめますと、
“(愛する人との別れによる)心痛を癒す秘訣は、できるだけ、普通に、自然体でいること。悲しみは自然のプロセスなのだ”
“その他の心痛を癒す方法は、生と死と永遠に生きることに対する哲学を学ぶこと”
“愛する人との別れを迎えたときの悲しみを防ぐことはできないだろう。しかし、嘆きを軽くすることはできる。それはこの世もあの世も一つであり時間と永遠は切り離すことができずこの世界は果てのない宇宙であるという信念を得たときに確信に満ちた哲学を持つことによって、避けられない状況の意味を理解できるようになるからだ。この哲学を信じて生きていけば心は穏やかになり、痛みは心を去っていく”
“「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか(ルカによる福音書 24章 5節)」聖書には神の思し召しと魂の不滅について知るされている。生と永遠に関して、正しい見解を持つことが、あなたの心痛をい癒す処方箋になるのだ”
参考:積極的考え方の力 成功と幸福を手にする17の原則 ノーマン・V・ピール ダイヤモンド社
キリスト教は魂という私たちの実体の存在を肯定しますが、仏教の無我という考え方がありません。
しかし似た部分も多く見られますね。
ちなみに仏教において魂の存在も含め「この世に実体を持つものはない」を意味する無我についてはこちらで詳しく解説しています。
無我の意味とは|仏教の無我とは深い世界観は苦しみから逃れる鍵
愛別離苦の英語表現
ちなみに愛別離苦の英語表現ですが、直訳があるわけではありません。
ただ、「愛する人との別れの苦しみ」を表現するとしたら
「the pain of losing a loved one」などが適当です。